やっぱり気候変わってるんだろうな。
数年前はこの時期も普通に腕真っ黒にしながら外仕事やってたはずなんだけど、最近はもう昼間を避けて朝と夕方に分けてる。しかも冷房が乏しいので家にいてもあんまりできることがない。
まいったね。
やっぱり気候変わってるんだろうな。
数年前はこの時期も普通に腕真っ黒にしながら外仕事やってたはずなんだけど、最近はもう昼間を避けて朝と夕方に分けてる。しかも冷房が乏しいので家にいてもあんまりできることがない。
まいったね。
aikoのライブ2日間。aikoはサービス精神の塊なのでライブツアーでも2日でセットリストをガラッと変える。
リリースツアーでもあるのでセトリ構成はアルバム曲+ライブ定番曲+αという感じ。ただ今回はこの+αが非常にサービス良くて人気曲が固まってたので嬉しかった。初日アンドロメダ、2日目シアワセはかなり嬉しい。
言うまでもなくバンドの演奏もaikoも歌もはっきり「ライブアーティスト」と言えるレベルの圧倒的なクオリティ。スピッツやYUKIもそうだけどJ-POPの全盛期からここまで第一線を張っているミュージシャンはこのあたりの地力が圧倒的に違う。
とはいえやはりこの人のライブの本領は曲目や演奏よりも(それだけでそんじょそこらのライブより圧倒的な充実度なのにも関わらず)、ライブ全体の雰囲気や空気感だと思う。本当に客席との距離感が近い。ただ音楽を聴かせるだけではなく、特別な空間と時間を作り上げようとしているという想いをひしひしと感じる。
今回は特にこんな時勢だったので去年1年間が相当堪えていたという正直な吐露や(「1年間ゴミ箱に入っていたけどみんなのおかげでやっとゴミ箱から出られた」みたいなこと言ってた)、最後のMCでは最近の感染者数に触れて「またライブができなくなったらどうしよう」と言いながら泣き出すというもうやりきれない気分になる一幕もあった。でもそういうところも全部見せてくれるのが、いわゆるジャンキーがaikoを好きになる理由だと思う。この人は真に、音楽とライブを生きる意味や支えにしている。
今回は一度ライブで聴きたかった曲が自分でもわけがわからないくらい刺さったのが、シャッターだった。
自分の中でaikoの曲と言えばアンドロメダとシャッターの二強だった。この2曲はとにかく高校生の頃によく聴いてたし、その後も聴き続けた。この2曲を聴けるまでライブ通おうと思ってたらあっさり回収できてしまった。ただシャッターはジャズアレンジ版だったけど(ついでに1日目のストリングスとアコースティックアレンジの「信号」も感動的だった)。
この曲は人生の中の特別な一瞬とその追憶を歌った曲なんだけどその歌詞と「人生の伏線が回収される」系の感動が重なって(だと思う)信じられんくらい泣いた。いややっぱわかんないな。どうしてこんなに涙出るんだろう。あなたとあたしの目の奥に生きる二人が同じ笑顔であります様に……
うーん面白い。
無観客ですらイベント規模としてあまりにも巨大すぎることを改めて思い知らされる。音楽なんかの他ジャンルでもこれに勝てるものは存在しないだろう。いくら時代遅れだのなんだの言っても意味ないわ、こりゃ。
しかし今日は面白かった。
最初のスケボーは前日から興味惹かれたので見始めたら解説瀬尾の話題性からの日本人金メダルの完璧な流れ。
合間に流してた女子ロードレースは無名のオーストリアの選手が大逃げを成功させて金メダル、その後オランダ勢が情勢を勘違いしていて1位だと勘違いしたまま2位だったという異常事態。
サッカーも格上を下して勝利。合間に流してたサーフィンも面白かった。
本当に1日中スポーツやってるの狂ってるな。明日も楽しみ。
今ではすっかりゲーム離れしてしまったけど昔はゲーム好きだった。
キッズだった時代はゲーム関連のホームページばっかり見てた。
不思議なものでその頃から断続的に付き合いが続いてて今もツイッターで相互フォローの人もいる。もう20年くらいか……。たぶん僕はインターネット上のデジタルな関係が生涯のソーシャル資本になる最初期の世代なんだろう。
『FF6』のバグを令和になっても探し続ける男──「縛りプレイ記録更新のために本職のゲームデバッガーに」狂気に満ちたやりこみゲーマーの生き様に迫る
FF6は昔から言ってるけど特に好きなゲームで、プレイした当時ひじょうな感銘を受けた。
やりこみプレイという世界があるのを知ったののもこのタイトルがきっかけだった。いろんな意味で世界が広がったと思う。
エディさんは今この世界でぶっちぎりで有名な人だと思うけど、この記事で少し触れられている更新前の8484歩の記録は更新をほぼリアルタイムで読んだ。最後に少し触れられてるField of Dreamsというサイトは当時FF5の攻略サイトとして有名だった。FF6は寄稿だけど、この投稿者の方もいろんなサイトで有名だった。
エディさんが書き込んでいる掲示板のスレッドがこれ。これですら2013年でもうすぐ10年前……。
http://fieldofdreams.happy.nu/bbs/cleyra/stbbs.cgi?_0=10&_1=letstalk&_2=l&_3=0&_10=1381727199
覚えている限りネットに低歩数クリアを初めて上げたのはシークエンスファクトリーというサイトでこれがすべての礎になっているはずなんだけどこっちはもう見つからない。
そんな前世紀の記録。
★★★
オリンピック開会式。
スピッツとレヴュースタァライト(あとクラスルームクライシス)のおかげで無意識や身体レベルで底上げされたのかかなり上向いてる。苦痛を紛らわしたいより楽しいことがしたいくらいの気持ちが出てきた。でもやっぱりもうちょっとコンディションいいときに見たかったな……
とにかく精神面のコンディションが悪いので結局上映最終日まで先延ばししてしまったけどなんとか観た、観れてよかった……。
スタァライトは2018年に舞台#1再演→アニメ→舞台#2と(あと翌年のオケコン)ドハマリしててその年に結構燃え尽きちゃったのでしばらく熱心には追ってなかったんだけど、どうにかついてこられてよかった。まさかスタァライトがこんな締め方をするとは想像もしてなかった。
物語の始まりは99期生の卒業直前。みんなそれぞれに進路を決めているけど、華恋だけが白紙のままでいる。
これは舞台版#2の華恋ともほぼ共通している(舞台#2はアニメの最終話ラストシーンから幕が上がり、スタァライトロスで燃え尽きている華恋から始まる)。しかし、舞台版では物語がライバル校青嵐との戦いに滑り込んだため、華恋自身の問題は事実上持ち越された。
映画では再びこれがスタァライトロスで燃え尽きて進路未定のままになっている華恋として主題化される。
そして、これは本当にビックリしたんだけど、その回答を出すために今度のレヴュースタァライトが選んだのは、「舞台の外」。すなわち文字通り舞台スタァライトにケリをつけ、9人が卒業し、次の舞台(=卒業後の進路)へ向かわせること。つまり、今回のレヴュースタァライトのテーマは、現実。
まさかスタァライトがこんなやり口を取るなんて思わなかった。自分の中で少女☆歌劇レヴュースタァライトという作品は「舞台の上」という空間に特権的な位置を与えていて、地下劇場というバーチャルな空間を使ってクリエイターが思う存分やりたい放題する作品だった。
その転換をはっきり示しているのが冒頭(ロンドロンドロンドの最後もあった?っけ?)の流血を伴う演出。皆殺しのレビューでは舞台上の演技のはずが本当に流血するという虚構と現実の境目が破れる描写がなされ、クライマックスでは華恋が事実上ほんとうに死ぬという衝撃的なシーンすら描かれている。
よって、オーディションに代わる今回の舞台「ワイルドスクリーンバロック」(元ネタがあるらしいけどまだ調べてない)は、虚構的な舞台と、現実すなわち楽屋オチのごとく観客をどっちらけにさせる舞台裏の空間を行ったり来たりする。ひかりVSまひるのように「役に入っていない」子がいるのもそのため。
ワイルドスクリーンバロックが開幕するのが地下鉄、それも一瞬地上に出る路線というのもたぶん象徴的で、テレビシリーズの地下劇場を引き継ぎながら半分はリアルな現実であるという新たなルールに支配されていることを示唆している。
あるいはTVシリーズが地下の深層に潜るほど物語が核心に近づくという垂直的な方向性に変わり、電車という水平方向の運動が対置されているのかもしれない。
そして、この半分舞台半分現実のレビューはそのコンセプトに対応するように、舞台上の強者も変わっている。
今回は舞台上の「演技」に変わり、それぞれの本能や裸の姿がフィーチャーされる。よりいっそう自分をさらけ出し、本能や衝動を剥き出しにした者が勝つ。純那ちゃんの借り物の言葉を捨てるシーンや、天童真矢の虚飾を泥臭い闘争心で破り捨てるクロディーヌが典型的。今回のクロちゃんめちゃくちゃ好きですね、TVシリーズで不遇だったのもあって。
8人がレヴューによってケリをつける一方で、華恋の進展は物語のちょいちょい挿入される過去編によって描かれる。スタァライトで燃え尽きていて、ひかりちゃんに存在意義を求めるしかなくなっている華恋にとって必要だったのは、自分自身がここまで登ってきた舞台への想いや衝動を思い出すこと。
だから、久しぶりのひかりちゃんとの再会で拒絶され、舞台少女として死んでしまった華恋を再び蘇らせるのは、過去のそれぞれの自分。
そして再生産というこの作品の代名詞で華恋は再び生まれ変わり、ひかりちゃんとの関係性が更新されることで華恋もまた卒業を迎える。
そして、物語はこの9人が演じていた「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」という舞台にケリがつく、という壮大な楽屋オチによってすべてに終止符が打たれる。スタァライトをもっと観たいと願っていた観客=キリン=コンテンツが続くための燃料も燃え尽きて消える。ブシロードのコンテンツでこんなのありかよ。
すさまじい劇場版だった。テレビシリーズがパーフェクトに綺麗にまとめきった作品だったのでもうおまけのお祭りくらいに考えてたけど、その終わった物語を完膚なきまでに美しく爆破していった。
地元のスピッツ。
スピッツもまたこの情勢で2020年に行うはずだったライブがすべて中止の憂き目に会い、今年全公演をアリーナ公演として再調整したのが今回のツアー。
今年は体調崩してから半年以上ずっと苦しくて厳しくて今まで疑いもせずにいたものが何も信じられなくなってしまったりしている中で唯一決まっていた予定がこのライブくらいだったのでどうしてもフラットな状態では見られなかった。
セトリは2019年末に一度見たものとほぼ同じ。2年越しの同じセトリのライブ。こんな体験するのは当然初めて。
振り返ってみれば最初のスピッツのライブが最後のコロナ禍前のライブだった。不思議なもんだな。やっぱりなんというか調子のいいときより調子の悪いときに真価を発揮してくれるタイプの存在なのかもしれない。こういう存在に出会えてよかった。
内容のほうはと言えば、2度目のセトリだったのでわりと全体を見る余裕があった。
まず何より演奏うますぎ。音源より圧倒的に重厚で硬くてうねりがある。それぞれの楽器の音が絡んで生まれる全体の音像からはただ単に譜面をなぞっているそれとは違う何かがあり、これこそがバンドがバンドとして活動する理由だという説得力を感じる。
久しぶりのスタンディングのライブだったけどとにかく音に身を任せるのが気持ちよくてやっぱり音楽って理屈や言語化で捉えきれるもんじゃないんだよなーとしみじみ。
歌や演奏も心なしか前に見たときより力が入っているように感じた。特にマサムネのボーカルは全体を通してかなり気迫がこもっていたような気がする。今のこの情勢に対する思いは少なからずあるだろうし。
正直まだ心のコンディションが弱ってるままなのでちゃんと楽しめるか不安なところもあったけど、終わってみれば理屈抜きで確実に気分が上向いているのを自分で感じとれた。やっぱりどんな状態のときでも寄り添ってくれるな。なぐさめで崩れるほどのギリギリをくぐり抜けて……
なんで?
— 電音部 公式 (@denonbu) July 13, 2021
— AKROGLAM (@akroglam) July 12, 2021
アクログラムが電音部がコラボするよう。
うーん早いな。個人的にはもう少し単独できちんと世界観作り上げてからにしてほしかった。
でもナナシスの影追い求めすぎなんだろうな。
まあコラボがどういう形になるかもまだだし前のめりすぎか。
今年は長く続いてる不安症状でろくにアニソン聴けてないけどアクログラムはすごくナチュラルに聴けて助かってる。
元気になってきたしオーディオドラマも追いたい。
これが本物のアニメ。
うーん困った
終わってみれば先月はなかなか厳しかったのを自分のことながら再認識したけど
ガルラジの長文を手直しして前逃げたところをきっちり納得いくまで書き直したい(あと本にしたい)という野望があるんだけどこれ以上は何かしら新しい知識がないと進みそうにない。
ドゥルーズをまた読み始めたのもその流れなんだけどドゥルーズのベルクソン経由したシネマの理論はやっぱり微妙に空振る感じがある。
音や声や音楽を現象学の観点から分析してるような研究がほしいんだけど、と思ってちょろっと検索したら簡単に出てきた。ただし未邦訳。
ダン・イーディ『リスニングとヴォイス : 音の現象学』。Kindle買ってGoogle翻訳放り込んだらなんとかなるかな……でも高いな……。
サンデーサイレンスの名前を初めて知ったのは2016年。新千歳空港のすぐそばにある社台グループのテーマパーク・ノーザンホースパークに寄ったときだった。
オフシーズンで人通りの少ない園内をふらふら歩き回り、端にあった小さなミュージアムに入った。中では社台グループが生産した数々の名馬が紹介されていた。
その中でステイゴールドやディープインパクトといったどこかしらで聞いた覚えのある名馬と並び、大きく紹介されていた知らない馬の名前が妙に印象に残っていた。サンデーサイレンス。