劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

2021年7月21日

とにかく精神面のコンディションが悪いので結局上映最終日まで先延ばししてしまったけどなんとか観た、観れてよかった……。

スタァライトは2018年に舞台#1再演→アニメ→舞台#2と(あと翌年のオケコン)ドハマリしててその年に結構燃え尽きちゃったのでしばらく熱心には追ってなかったんだけど、どうにかついてこられてよかった。まさかスタァライトがこんな締め方をするとは想像もしてなかった。

物語の始まりは99期生の卒業直前。みんなそれぞれに進路を決めているけど、華恋だけが白紙のままでいる。
これは舞台版#2の華恋ともほぼ共通している(舞台#2はアニメの最終話ラストシーンから幕が上がり、スタァライトロスで燃え尽きている華恋から始まる)。しかし、舞台版では物語がライバル校青嵐との戦いに滑り込んだため、華恋自身の問題は事実上持ち越された。
映画では再びこれがスタァライトロスで燃え尽きて進路未定のままになっている華恋として主題化される。

そして、これは本当にビックリしたんだけど、その回答を出すために今度のレヴュースタァライトが選んだのは、「舞台の外」。すなわち文字通り舞台スタァライトにケリをつけ、9人が卒業し、次の舞台(=卒業後の進路)へ向かわせること。つまり、今回のレヴュースタァライトのテーマは、現実。

まさかスタァライトがこんなやり口を取るなんて思わなかった。自分の中で少女☆歌劇レヴュースタァライトという作品は「舞台の上」という空間に特権的な位置を与えていて、地下劇場というバーチャルな空間を使ってクリエイターが思う存分やりたい放題する作品だった。

その転換をはっきり示しているのが冒頭(ロンドロンドロンドの最後もあった?っけ?)の流血を伴う演出。皆殺しのレビューでは舞台上の演技のはずが本当に流血するという虚構と現実の境目が破れる描写がなされ、クライマックスでは華恋が事実上ほんとうに死ぬという衝撃的なシーンすら描かれている。

よって、オーディションに代わる今回の舞台「ワイルドスクリーンバロック」(元ネタがあるらしいけどまだ調べてない)は、虚構的な舞台と、現実すなわち楽屋オチのごとく観客をどっちらけにさせる舞台裏の空間を行ったり来たりする。ひかりVSまひるのように「役に入っていない」子がいるのもそのため。
ワイルドスクリーンバロックが開幕するのが地下鉄、それも一瞬地上に出る路線というのもたぶん象徴的で、テレビシリーズの地下劇場を引き継ぎながら半分はリアルな現実であるという新たなルールに支配されていることを示唆している。
あるいはTVシリーズが地下の深層に潜るほど物語が核心に近づくという垂直的な方向性に変わり、電車という水平方向の運動が対置されているのかもしれない。

そして、この半分舞台半分現実のレビューはそのコンセプトに対応するように、舞台上の強者も変わっている。
今回は舞台上の「演技」に変わり、それぞれの本能や裸の姿がフィーチャーされる。よりいっそう自分をさらけ出し、本能や衝動を剥き出しにした者が勝つ。純那ちゃんの借り物の言葉を捨てるシーンや、天童真矢の虚飾を泥臭い闘争心で破り捨てるクロディーヌが典型的。今回のクロちゃんめちゃくちゃ好きですね、TVシリーズで不遇だったのもあって。

8人がレヴューによってケリをつける一方で、華恋の進展は物語のちょいちょい挿入される過去編によって描かれる。スタァライトで燃え尽きていて、ひかりちゃんに存在意義を求めるしかなくなっている華恋にとって必要だったのは、自分自身がここまで登ってきた舞台への想いや衝動を思い出すこと。
だから、久しぶりのひかりちゃんとの再会で拒絶され、舞台少女として死んでしまった華恋を再び蘇らせるのは、過去のそれぞれの自分。
そして再生産というこの作品の代名詞で華恋は再び生まれ変わり、ひかりちゃんとの関係性が更新されることで華恋もまた卒業を迎える。

そして、物語はこの9人が演じていた「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」という舞台にケリがつく、という壮大な楽屋オチによってすべてに終止符が打たれる。スタァライトをもっと観たいと願っていた観客=キリン=コンテンツが続くための燃料も燃え尽きて消える。ブシロードのコンテンツでこんなのありかよ。

すさまじい劇場版だった。テレビシリーズがパーフェクトに綺麗にまとめきった作品だったのでもうおまけのお祭りくらいに考えてたけど、その終わった物語を完膚なきまでに美しく爆破していった。