カテゴリー: アニメ

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

とにかく精神面のコンディションが悪いので結局上映最終日まで先延ばししてしまったけどなんとか観た、観れてよかった……。 スタァライトは2018年に舞台#1再演→アニメ→舞台#2と(あと翌年のオケコン)ドハマリしててその年に結構燃え尽きちゃったのでしばらく熱心には追ってなかったんだけど、どうにかついてこられてよかった。まさかスタァライトがこんな締め方をするとは想像もしてなかった。 物語の始まりは99期生の卒業直前。みんなそれぞれに進路を決めているけど、華恋だけが白紙のままでいる。 これは舞台版#2の華恋ともほぼ共通している(舞台#2はアニメの最終話ラストシーンから幕が上がり、スタァライトロスで燃え尽きている華恋から始まる)。しかし、舞台版では物語がライバル校青嵐との戦いに滑り込んだため、華恋自身の問題は事実上持ち越された。 映画では再びこれがスタァライトロスで燃え尽きて進路未定のままになっている華恋として主題化される。 そして、これは本当にビックリしたんだけど、その回答を出すために今度のレヴュースタァライトが選んだのは、「舞台の外」。すなわち文字通り舞台スタァライトにケリをつけ、9人が卒業し、次の舞台(=卒業後の進路)へ向かわせること。つまり、今回のレヴュースタァライトのテーマは、現実。 まさかスタァライトがこんなやり口を取るなんて思わなかった。自分の中で少女☆歌劇レヴュースタァライトという作品は「舞台の上」という空間に特権的な位置を与えていて、地下劇場というバーチャルな空間を使ってクリエイターが思う存分やりたい放題する作品だった。 その転換をはっきり示しているのが冒頭(ロンドロンドロンドの最後もあった?っけ?)の流血を伴う演出。皆殺しのレビューでは舞台上の演技のはずが本当に流血するという虚構と現実の境目が破れる描写がなされ、クライマックスでは華恋が事実上ほんとうに死ぬという衝撃的なシーンすら描かれている。 よって、オーディションに代わる今回の舞台「ワイルドスクリーンバロック」(元ネタがあるらしいけどまだ調べてない)は、虚構的な舞台と、現実すなわち楽屋オチのごとく観客をどっちらけにさせる舞台裏の空間を行ったり来たりする。ひかりVSまひるのように「役に入っていない」子がいるのもそのため。 ワイルドスクリーンバロックが開幕するのが地下鉄、それも一瞬地上に出る路線というのもたぶん象徴的で、テレビシリーズの地下劇場を引き継ぎながら半分はリアルな現実であるという新たなルールに支配されていることを示唆している。 あるいはTVシリーズが地下の深層に潜るほど物語が核心に近づくという垂直的な方向性に変わり、電車という水平方向の運動が対置されているのかもしれない。 そして、この半分舞台半分現実のレビューはそのコンセプトに対応するように、舞台上の強者も変わっている。 今回は舞台上の「演技」に変わり、それぞれの本能や裸の姿がフィーチャーされる。よりいっそう自分をさらけ出し、本能や衝動を剥き出しにした者が勝つ。純那ちゃんの借り物の言葉を捨てるシーンや、天童真矢の虚飾を泥臭い闘争心で破り捨てるクロディーヌが典型的。今回のクロちゃんめちゃくちゃ好きですね、TVシリーズで不遇だったのもあって。 8人がレヴューによってケリをつける一方で、華恋の進展は物語のちょいちょい挿入される過去編によって描かれる。スタァライトで燃え尽きていて、ひかりちゃんに存在意義を求めるしかなくなっている華恋にとって必要だったのは、自分自身がここまで登ってきた舞台への想いや衝動を思い出すこと。 だから、久しぶりのひかりちゃんとの再会で拒絶され、舞台少女として死んでしまった華恋を再び蘇らせるのは、過去のそれぞれの自分。 そして再生産というこの作品の代名詞で華恋は再び生まれ変わり、ひかりちゃんとの関係性が更新されることで華恋もまた卒業を迎える。 そして、物語はこの9人が演じていた「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」という舞台にケリがつく、という壮大な楽屋オチによってすべてに終止符が打たれる。スタァライトをもっと観たいと願っていた観客=キリン=コンテンツが続くための燃料も燃え尽きて消える。ブシロードのコンテンツでこんなのありかよ。 すさまじい劇場版だった。テレビシリーズがパーフェクトに綺麗にまとめきった作品だったのでもうおまけのお祭りくらいに考えてたけど、その終わった物語を完膚なきまでに美しく爆破していった。... 続きを読む


【試聴動画】TVアニメ「現実主義勇者の王国再建記」第3話挿入歌「Give a reason」/ジュナ・ドーマ(CV:上田麗奈)

なんで?... 続きを読む


GHOST IN THE SHELLを観る

先月一度も使わなかったdアニを解約したら案の定アニメ観る気になってきたので手持ちの円盤から選んだ。 やっぱりいつまで経ってもすごいな~タイムレスな名作ってこういうものを言うんだな。... 続きを読む


額に入れよう

帰りにダイソーに寄ったところツイッターで見かけたA4クリアファイル対応の額が入荷していたので購入。虹ヶ咲のお台場コラボ用に。 乗車券はポストカードサイズの額に。自分でちょっとだけ手を加えると愛着湧くので昔から好き。    ... 続きを読む


アイドリープライド10話とぶらどらぶ7話が良かった

アイプラ10話、おどろくほどまともだった。スタッフにTrySailファンがいるんだろう。 アニメは虚無そのものだけど、曲を聴いてるとコンポーザーの強さだけじゃなく発注側がちゃんとコンテンツのカラーを表現できるコンテンツに感じるし興味はまだ惹かれてる。 ぶらどらぶはさすがにあんまりだった。押井先生……西村先生……。 上田さんのライブはアーカイブ観たほうがいいんだろうけどやっぱり配信アーカイブに4Kは億劫になる。 メンタルのほうはあともう少しが取れそうで取れない。もうほっといてもしばらくすれば治るだろうけど苦痛なのは苦痛なのでもう一回PTSD方面から見直すかな。... 続きを読む


まだエヴァの話するんだけど

判断するにはまだ拙速かとも思ったけど明らかにここ最近の乱れに乱れた気分が落ち着いてきてる。 まさかエヴァが癒しになるなんて想像もしてなかった。特にアニメってイメージがビビッドでキツいから体のコンディション良くないときは受容できないことも多いんだけど。 観てるあいだ色々な(本当に色々な)感情が沸いては去っていったけど、一番強く感じたのは庵野さんの優しさだった。自分が生み出してきたキャラクターに対する優しい想いが隅々から伝わってきた。たぶん僕がシンエヴァで一番好きなのはそこなんだと思う。 そして、誰にとってのエヴァも等しく包括して肯定してくれる作品に感じた。... 続きを読む


エヴァと宇多田ヒカル

One Last Kiss聴いてますよ。本当に素晴らしい曲。 ここまでど丁寧に歴代主題歌編んでもらえるとさすがに新劇がちゃんと4部作のまとまりのある作品だったんだと思える。 宇多田ヒカル抜きの新劇なんか考えられないな。この人じゃなかったら新劇はどうなってんたんだろう。 考えてみれば90年代にエヴァと同じく本物のカリスマだった宇多田ヒカルが商業的なピークを越えてゆるやかに山を下り始めた頃からこの新劇シリーズに寄り添う一連の曲作ったって思うと色々感じるものがある。 新劇は毎回どんな展開で終わったとしても、エンドロールで宇多田ヒカルの歌声が流れ始めるとシンジたちや作品世界を外から優しく見守ってくれているようなあたたかさを感じていた。 僕はHEART STATIONが初めてちゃんと好きになった宇多田ヒカルだった。 このアルバムは発売してすぐ買ってめちゃくちゃに聴きまくった。 優しくて前向きに励ましてくれる歌詞も、無機質だけどなぜか明るく暖かい音色も全部好きだった。iPodに落とした後はアルバム通して聴くことが滅多になかった自分には例外なくらい1曲目のFight The Bluesからラストの虹色バスまで全曲好きだった。僕の人生に付き添ってくれた大切なアルバムの1つ。 当時は孤独だった。本当に孤独だった。... 続きを読む


ライトファンのエヴァとシンエヴァ

シンエヴァ、何よりまず大変に良かったです。観終わったあとは予想だにしなかったくらい爽快な気分になっていた。 破を何度も観に行った大学生の頃思い出してちょっと感傷的になるくらいには自分にもエヴァの思い出あったんだなとも思った。 エヴァにはそこまで思い入れなかったはずだけど、翌日からこれがエヴァンゲリオンが終わった世界かと思うくらいには感慨があるし、そのくらい巨大な作品だったなと思う。なんだかんだエヴァに間に合えたのは本当に良かったなと思えたし嬉しい。 ところでこのブログちょっとプチ裏垢的に使おうかなともとも思ってたんだけどやっぱりそんな運用無理でしたね、僕には。 僕は世代的には何かの間違いで思春期に旧シリーズが直撃してしまってもおかしくなかったけど、結果的にはしばらく縁がなかった。ただ幼な心にテレビでおめでとうのシーン観たのははっきり記憶に残ってる。 旧はその後、序が公開された頃に一挙放送か何かで履修した。そのときも教科書的に有名なネタ再確認したくらいで終わった。良くも悪くもここまでのビッグネームだと様式的にわかった気になりやすすぎる。 変わったのはやっぱり破のときで、そのとき初めて庵野秀明ってこんなにすごいクリエイターだったのかと目を開かされる思いをした。あのときは絶賛一色の社会現象だったしあの雰囲気は忘れられない。 それまでは基本的に宗教だと思ってたし、破はエヴァの世俗化だと思った。数年後もそう思い続けてたのでそのまま観たQは当然なんやこれアホかと思って一気に呆れた。これこそがエヴァとか言ってる連中にはいい加減にしろよこの90年代の化石くらいに思ってた。 しかし困ったことにその後なぜかストンとわかるようになってしまった。 それもテレビで何度も再放送されるのを何度も茶々入れながら流し見してるうちにあるとき突然わかった。この映画つまりシンジがすべての中心なんだと。 シンジが主人公なのは当たり前といえばそうなのだが、新劇は特に物語の視点をシンジから動かさないようにして整理し直すのが基本方針にあったんじゃないかと気がついた。 庵野さんは明らかに得意な作劇のひとつに組織を中心にした群像劇がある。シン・ゴジラはそれが前面に出ているし、旧シリーズもネルフやゼーレの大人たちの思惑が交錯する局面はそれに近い。 たぶん新劇はここが意識的に抑制されている。関係性はどのキャラクターもシンジを中心にして放射状に伸びる線が基本になっている。だから加持さんとアスカの関係のような部分がカットされている。 実際あってるかはともかく、ここまで考えたところでQがまともに観れるようになってしまっていた。14年寝てたシンジに開示されない情報は観客にも一切開示されない。よってシンちゃん以外の全員がお互いにほう……そう来ましたか、大したものですね。とか言い続けてるのをシンちゃんと一緒に混乱したまま観るのが正解なのだ。面白いかと言われたら何も面白くはないが。 なぜそうなっているかといえば、庵野さんがそう作りたかったからでしょう。シンジの心理的な成長や変化の過程を細かく描写するのが一番やりたかったから。つまり新劇の創作モチーフは最初からそこに原点がある。 何もシンジ=庵野レベルまで短絡させる必要もなく、自分の中の14才に対してどう向き合うのかってのは人にとって普遍的な主題だろうし、その目的のために物語や創作が使用されるのも不自然なことじゃない。 Qは庵野さん的には新劇シンジに喪失体験(シンじゃ普通に言葉に出して説明しやがった)を経験させないのは嘘になる的な動機からあの内容になったんだろうと思う。だからシンジのイマジナリーフレンドに近い存在であるカヲルくんが出てくる。 そんな事情を裏読みしても本来は作品の評価にはべつに全然関係ないんだけど、困ったことに天才のエゴに付き合うのって自分の気が向いた場合はめちゃくちゃ楽しいのだよな。 作ろうと思えば破とかシンゴジラ作れてしまう人が何かしらの創作観念の必然性に駆られて作ってしまっているのがエヴァンゲリオンというアニメなんだな、というところまで来てようやくこれがエヴァに浸かるってことかと少しは理解した気分になれた。 終わってみれば浅瀬くらいまででも浸かれて良かった。こんな体験エヴァ以外じゃ望むべくもない。 シンも純粋なアニメ映画として見たら(この前提自体が現象的に無意味だが)まあ褒めない。相変わらず演出のキレは戻ってないし。どんなに甘くつけても75点がいいとこ。 ただエヴァンゲリオンとしてはこれ以上ない。こういう言い方すると言葉ヅラを弄してるだけにしか見えないんだけど、この感動と爽快感は紛れもなく本物だよ。 個人的には経営者も掛け持ちの庵野さんならどうせ終わらせないだろうと思ってた。 でもここまで終わらせたかったなんて思ってなかった。商業的な都合以上に自分のパーソナルな部分にけりをつけるという強い動機と創作意欲に満ちている作品だと思った。アニメーション映画みたいなフォーマットでそういうのってそうそうお目にかかれない。フィクションにただの暇潰し以上の何かを信じてる人間にとってこういう作品に立ち会えるより幸福なことってない。 終盤のひどさったらもう本当になかった。代名詞のミステリアスさはどこに行ったんだよと言いたくなる説明台詞のオンパレードにセルフオマージュ含むこんなしょうもないことやってて自分で恥ずかしくならないのかよと言いたくなる演出の数々なのに心底感動してしまった。これがあのエヴァンゲリオンの終わりかよ。 でもエヴァのない世界を作るためにはあれくらい泥臭くやるしかなかったんだろうな。 まあ人間生きてればいくらでも心変わりするししばらくしたらまた作りたくなるんじゃないかなくらいに思ってるけど。 あと最後に付け加えるとすれば、自分の関心範囲で特に重なる作品としてやっぱりナナシスが連想された。本当いろんな意味で笑っちゃうくらいエヴァチルドレンな作品だったんだなと思った。... 続きを読む