過去の再解釈

自分の症状の対処法を越えてトラウマに関心がある理由に僕の哲学趣味の傾向がある。

前にも書いたけど僕はベルクソンやハイデガーと言った生の哲学と呼ばれる哲学上の流れに強いシンパシーがある。他には挙げればフッサールやウィトゲンシュタイン。最近ならフーコー。ニーチェは好きと言えるほど読み込んでない。ドゥルーズもこの延長線上にある。というか元々のルーツを辿ると僕の哲学趣味はドゥルーズに興味を持ったところから始まっていて、そこから遡るようにフッサールやハイデガーを読んだのが僕の哲学の読み方のベースになった。

これらの哲学者には似通った時間哲学がある。僕は哲学の面白さは抽象的な領域を扱うことによって多かれ少なかれ世界についての常識を破壊することにあると思ってる派なんだけど、彼らの時間哲学はその代表的なものといえる。

さて、一般的な考え方では、時間は過去→現在→未来の順に流れる。過去は既に起こったことで決定済みであり、変更することはできない。だが哲学のおもしろさはここに疑いをかけるところにある。
たとえば化石のようなものを例に取ってみる。今ここにアンモナイトであれ恐竜の骨であれ、何かしらの化石があるとする。普通に考えればこれは太古の昔に生きていた生物が死んだあと石になり、今ここに存在している。時間の流れは過去→現在。
だが、ここには見逃せないファクターがある。この化石という物体が元は太古の生物であり、かつて存在していたという認識は、専門的な古生物学者によって得られたものだ。生きていた頃の姿なども古生物学者の知識によって復元されたものになる。そしてその根拠は「今ここ」にある化石や地層といったものにある。換言すれば現在から過去が導かれている。現在→過去。ここで時間の流れは逆転している。

だいぶ細部を端折っているのでかなり乱暴な話になってるけど、これは主に大陸哲学における観念論の哲学という大きな流れの性格が影響している。この立場では人間の主観に大きなプライオリティを与える。デカルトのコギトがその最も古い祖先。それが時間哲学に反映されると、「現在」に大きな価値が与えられることになる。

これは意外に単なる言葉遊びに留まるわけでもない。たとえば人間のアイデンティティの問題なんかも大きくこの括りに収まる。
ごく簡単にいえば「私は…である」という命題がある。「…」にはおおむね職業、階級、趣味、その他社会的属性や身体特徴、性別など様々な要素が代入できる。ネットでプロフィール欄に何を書くかも同様の事態。
しかし、それを書くとき、その過去は生のものにはならない。そこには現在から見られた選択的な意志が介在している。つまり、ここでの過去=アイデンティティは、そのときどきの現在から光を照らして有用な部分を集めて再構成されたものだ。
べつに過去とは無差別に恣意的に変更できるものだという話でもない。むしろここではアイデンティティ(=解釈された過去)とは、多かれ少なかれそのとき人が置かれている「現在の状況」が反映されている、というほうが重要だろう。社会学の巨人はこういった問題を扱っていた。
しかし、そのようにして了解された過去=アイデンティティはどこまで行っても1つの解釈に留まる。光で照らされなかった闇の中には、広大な純粋過去が口を開けている。まだ自分にも気が付かれていないだけで。