ライトファンのエヴァとシンエヴァ

2021年3月9日

シンエヴァ、何よりまず大変に良かったです。観終わったあとは予想だにしなかったくらい爽快な気分になっていた。
破を何度も観に行った大学生の頃思い出してちょっと感傷的になるくらいには自分にもエヴァの思い出あったんだなとも思った。
エヴァにはそこまで思い入れなかったはずだけど、翌日からこれがエヴァンゲリオンが終わった世界かと思うくらいには感慨があるし、そのくらい巨大な作品だったなと思う。なんだかんだエヴァに間に合えたのは本当に良かったなと思えたし嬉しい。
ところでこのブログちょっとプチ裏垢的に使おうかなともとも思ってたんだけどやっぱりそんな運用無理でしたね、僕には。

僕は世代的には何かの間違いで思春期に旧シリーズが直撃してしまってもおかしくなかったけど、結果的にはしばらく縁がなかった。ただ幼な心にテレビでおめでとうのシーン観たのははっきり記憶に残ってる。
旧はその後、序が公開された頃に一挙放送か何かで履修した。そのときも教科書的に有名なネタ再確認したくらいで終わった。良くも悪くもここまでのビッグネームだと様式的にわかった気になりやすすぎる。

変わったのはやっぱり破のときで、そのとき初めて庵野秀明ってこんなにすごいクリエイターだったのかと目を開かされる思いをした。あのときは絶賛一色の社会現象だったしあの雰囲気は忘れられない。
それまでは基本的に宗教だと思ってたし、破はエヴァの世俗化だと思った。数年後もそう思い続けてたのでそのまま観たQは当然なんやこれアホかと思って一気に呆れた。これこそがエヴァとか言ってる連中にはいい加減にしろよこの90年代の化石くらいに思ってた。

しかし困ったことにその後なぜかストンとわかるようになってしまった。
それもテレビで何度も再放送されるのを何度も茶々入れながら流し見してるうちにあるとき突然わかった。この映画つまりシンジがすべての中心なんだと。
シンジが主人公なのは当たり前といえばそうなのだが、新劇は特に物語の視点をシンジから動かさないようにして整理し直すのが基本方針にあったんじゃないかと気がついた。

庵野さんは明らかに得意な作劇のひとつに組織を中心にした群像劇がある。シン・ゴジラはそれが前面に出ているし、旧シリーズもネルフやゼーレの大人たちの思惑が交錯する局面はそれに近い。
たぶん新劇はここが意識的に抑制されている。関係性はどのキャラクターもシンジを中心にして放射状に伸びる線が基本になっている。だから加持さんとアスカの関係のような部分がカットされている。

実際あってるかはともかく、ここまで考えたところでQがまともに観れるようになってしまっていた。14年寝てたシンジに開示されない情報は観客にも一切開示されない。よってシンちゃん以外の全員がお互いにほう……そう来ましたか、大したものですね。とか言い続けてるのをシンちゃんと一緒に混乱したまま観るのが正解なのだ。面白いかと言われたら何も面白くはないが。

なぜそうなっているかといえば、庵野さんがそう作りたかったからでしょう。シンジの心理的な成長や変化の過程を細かく描写するのが一番やりたかったから。つまり新劇の創作モチーフは最初からそこに原点がある。
何もシンジ=庵野レベルまで短絡させる必要もなく、自分の中の14才に対してどう向き合うのかってのは人にとって普遍的な主題だろうし、その目的のために物語や創作が使用されるのも不自然なことじゃない。
Qは庵野さん的には新劇シンジに喪失体験(シンじゃ普通に言葉に出して説明しやがった)を経験させないのは嘘になる的な動機からあの内容になったんだろうと思う。だからシンジのイマジナリーフレンドに近い存在であるカヲルくんが出てくる。

そんな事情を裏読みしても本来は作品の評価にはべつに全然関係ないんだけど、困ったことに天才のエゴに付き合うのって自分の気が向いた場合はめちゃくちゃ楽しいのだよな。
作ろうと思えば破とかシンゴジラ作れてしまう人が何かしらの創作観念の必然性に駆られて作ってしまっているのがエヴァンゲリオンというアニメなんだな、というところまで来てようやくこれがエヴァに浸かるってことかと少しは理解した気分になれた。

終わってみれば浅瀬くらいまででも浸かれて良かった。こんな体験エヴァ以外じゃ望むべくもない。
シンも純粋なアニメ映画として見たら(この前提自体が現象的に無意味だが)まあ褒めない。相変わらず演出のキレは戻ってないし。どんなに甘くつけても75点がいいとこ。
ただエヴァンゲリオンとしてはこれ以上ない。こういう言い方すると言葉ヅラを弄してるだけにしか見えないんだけど、この感動と爽快感は紛れもなく本物だよ。

個人的には経営者も掛け持ちの庵野さんならどうせ終わらせないだろうと思ってた。
でもここまで終わらせたかったなんて思ってなかった。商業的な都合以上に自分のパーソナルな部分にけりをつけるという強い動機と創作意欲に満ちている作品だと思った。アニメーション映画みたいなフォーマットでそういうのってそうそうお目にかかれない。フィクションにただの暇潰し以上の何かを信じてる人間にとってこういう作品に立ち会えるより幸福なことってない。
終盤のひどさったらもう本当になかった。代名詞のミステリアスさはどこに行ったんだよと言いたくなる説明台詞のオンパレードにセルフオマージュ含むこんなしょうもないことやってて自分で恥ずかしくならないのかよと言いたくなる演出の数々なのに心底感動してしまった。これがあのエヴァンゲリオンの終わりかよ。

でもエヴァのない世界を作るためにはあれくらい泥臭くやるしかなかったんだろうな。
まあ人間生きてればいくらでも心変わりするししばらくしたらまた作りたくなるんじゃないかなくらいに思ってるけど。

あと最後に付け加えるとすれば、自分の関心範囲で特に重なる作品としてやっぱりナナシスが連想された。本当いろんな意味で笑っちゃうくらいエヴァチルドレンな作品だったんだなと思った。