「思考という積極的意志、真なるものへの欲求や自然的な愛が人間の中にあると想定するのは哲学のおかす誤りである」

ドゥルーズ『経験論と主体性』の5章。

やっと初期ドゥルーズのモチーフがまとまって見えてきた。論理的必然性のような事実性の概念をさらに経験論で基礎づけること。ドゥルーズはそれを超越論的経験論と呼んでいる。

そうではなく、経験論の構成原理は、

 分離しうるものはすべて判別しうるものであり、判別しうるものはすべて異なっている。

という原理である。これが、[経験論の]差異の原理なのだ。

 というのも、判別しえないものわたしたちが分離しうるなどということ、あるいは異なっていないものをわたしたちが区別しうるなどということは、ありうるわけがないからである。

 したがって、経験とは、異なるかぎりにおいて分離しうる諸観念、また分離しうるかぎりにおいて異なる諸観念、の継起であり運動である。この経験からこそ、出発しなければならないのだ。なぜなら、この経験が経験というものだからである。経験は他の何ものをも前提とせず、何ものも経験に先立たない。経験は、経験をおのれの変様とするような主体も、経験をおのれの変容、様態とするような実体も、まったく折り込んでいないのである。

知覚の存在を支えるために必要なものは何もないように思われる。

ドゥルーズがベルクソンの持続に差異化しながら同一であり続ける流れを読みとっていたのが重なる。ここからドゥルーズはこの経験のみに依拠して主体や因果性といったカテゴリーがどう生成するのかをヒュームのテキストから考察するけどこのあたりは相当難しくて半分以上わからない。

ただ間違いなくこのサイトにも載せている『プルーストとシーニュ』もベルクソン論と同じ問題圏内にある。すなわち「主体は受動的な綜合から生成される」。

虹ヶ咲の記事を書いていたとき、侑ちゃんのことを考えていて脳裏を離れなかったのはドゥルーズのプルースト論だった。