日: 2021年8月25日

ジャン=リュック・ナンシー『恋愛について』、アラン・バディウ『愛の世紀』

ナンシーが亡くなった。
彼を知ったのは最近になってからで(おそらく2017年以降)で、フランス現代思想として括られる哲学者の中でもいまだ存命中で執筆活動を続けていたことに驚いた。

ナンシーへの関心はハイデガーの哲学からのものだったけど、実際に手にとって突出して惹かれたのはこの小さな本だった。『無為の共同体』も本棚に刺さっているけど相当な体力がいる本でまだ読めそうにない。

内容はナンシーがフランスの中高生に向けての講演を収録したもの。要約できるような思想が表現されているわけじゃない。むしろ100ページ足らずの薄い本なのに要約するのはきわめて難しい本だと言ってもいい。
内容はといえばナンシーが愛とはなんぞやということについてとうとうと語り、聴講者の学生からの質疑応答が収録されている。ナンシーは「愛とは何か」という古代ギリシャ哲学のような抽象的なテーマに逃げずに正面から正直に語っている。片思い、告白、結婚、バレンタイン、性、結婚。しかし、そこにナンシーの哲学が内包されていることがはっきりと予感される。
ナンシーはこの愛というものが人間存在にとって本質的で絶対的なものだということを陰に陽に示そうとしている。これは単なる感情の1つじゃない。
ナンシーは講演の中頃に「情熱的な愛」について話し出し、パッション(情熱)という言葉を持ち出す。知っている人なら知っているけどこれは受苦・受難という意味もある(アクション=行動の反対語)。自分の外からやってくるもの、自分の意志を越えて外から降ってくるもの、みたいなニュアンス。ナンシーはここで愛をハイデガー的な存在の贈与(es gibt)に読み替えているように見える。愛はこの世界に「存在」するのだというように。

私たちは愛を受け取るのです。たとえ愛を与えるときでさえ。これは大切なことです。誰かを愛しているとき、私たちは愛を相手に与えますが、それは自分がどこかから受け取ったものを与えるのです。それは相手から受け取ったのかも知れません。とにかく自分自身との関係以外のところで受け取ったものなのです。愛はどこからも来ないようで、でもあらゆるところからやって来て、それによって、私たちは相手にとらわれ、その人に向き合うことになるのです。私たちは、相手の男性や女性が持っている絶対に唯一のものにとらわれるのであって、その人が面白いとか美しいとか頭がいいとか利口だとかいった性質や、ましてお金持ちだとかそんなことにとらわれるわけではありません。

バディウの本は愛についての研究史という趣きが強い。特に哲学史においてどのように愛が解釈されてきたかを通し、バディウの恋愛論が展開される。
とりあげられるトピックはどれもとても面白い。個人的にはベケットの作品は愛の最も深い形態を描いているという言及はずっと印象に残っている。

まあロマンチックすぎるのはそうなんだけど、でもやっぱこういうところはあんまりシニカルになりすぎないでいたいよなと思う。つくづくろくな人生送ってないんだけど、本当に。