SeaBedで久しぶりに村上春樹のことを思い出して、そういえばだいぶ昔だれかに『風の歌を聴け』には読み方があるんだよって話をしたことがあるのを思い出した。
ちなみに自分で気付いたわけじゃなくて評論か何かで読んだような気がするんだけど細かい出典は何だったか忘れた。たぶん加藤典洋の春樹論だと思うんだけど、ネットで調べたところ『風の歌』のこの読解への言及はざっと
- 平野芳信『村上春樹と〈最初の夫の死ぬ物語〉』収録、「凪の風景、あるいはもう一つの物語 : 『風の歌を聴け』論」(これが『風の歌』の最初の画期的な読解だったらしい)
- 斎藤美奈子『妊娠小説』
- 石原千秋『謎とき村上春樹』
あたりが該当するらしい。
考察のお供に!村上春樹の解説本・評論書・研究書を紹介する! – 日々の栞 (hatenablog.com)
さて、大元から説明すると、この小説は村上春樹のデビュー作で、時空間が40個の短い断章がバラバラに配置されたスタイルを取っており、一見すると物語性は薄い。でもこの小説は実は明示されていないだけで、ちゃんと1本のストーリーがある。
どうすればいいかと言うと、40個の断章を並び替えて整理すればよい。いま読み返したばっかりの僕が適当にざっくり羅列すると、
- 1978年、29歳の時点で過去を回想している主人公の『僕』の語り
- 1970年8月8日から8月26日までの、当時21歳の大学生の主人公が神戸に帰省している間のエピソード
- このエピソードはさらに、①主人公と鼠の物語、②主人公と小指のない女の子の物語の2つに区分される。
- その他に主人公の語りによる子どもの頃のエピソードや、3人のガールフレンドとの話
- 特に3人目のガールフレンド(仏文科の学生で1970年の時点では自殺している)が何度も出てくる。
- いくつかの例外
- ラジオDJによる語り
- 第6章(この章のみ視点が主人公ではなく、鼠による作中作小説あるいは主人公を離れた三人称視点になっている)
この中で一番小説のウェイトを占めているのが「2.」の1970年夏の物語で、特に鼠と小指のない女の子に関連する内容が最も長く語られる。ここに直接的には語られてないストーリーがあり、一種のミステリー小説みたいに解読の鍵が用意されている。
ヒントはいくつかあるんだけど、たぶん一番提唱者が多いのが「ジョン・F・ケネディー」という単語に着目するもの。電子版だと全文検索できるからもっとわかりやすいのかもしれない。
この小説は当時のポップカルチャーの空気感を取り入れていていろんな固有名詞が出てくるんだけど、「ケネディー」はとりわけ何度も反復して出てくる。
この単語が最初に出てくるのは第6章。この章は主人公を視点を離れた鼠の作中作小説を偽装するような三人称視点になっていて、鼠と交際中の女性があまりうまくいっていなさそうな会話をしているシーンが描写されている。
二人はしばらく黙った。鼠はまた何かをしゃべらなければならないような気がした。
「ねえ、人間は生まれつき不公平に作られてる。」
「誰の言葉?」
「ジョン・F・ケネディー。」
そのすぐ後、主人公がバーで泥酔していた小指のない女の子を家まで送り届ける章ではこう。
「ねえ、昨日の夜のことだけど、一体どんな話をしたの?」
車を下りる時になって、彼女は突然そう訊ねた。
「いろいろ、さ。」
「ひとつだけでいいわ、教えて。」
「ケネディーの話。」
「ケネディー?」
「ジョン・F・ケネディー。」
彼女は頭を振って溜息をついた。
「何も覚えてないわ。」
つまり、鼠の恋人と小指のない女の子は同じ女性。
この小説は、あまりうまくいっていない親友とその恋人の関係を取り持とうとしている主人公のお話。
ここまで来れば物語にほぼ綺麗に筋が通る。
作中の中盤で鼠は主人公に交際相手を紹介しようとするが、時が経つにつれてなぜか歯切れが悪そうにその話はなくなったと言い出す。何か悩みを抱えていそうなのに何も喋らない。最終的には大学を辞める。
小指のない女の子は常に憂鬱そうな素振りを見せていて、途中で主人公に1週間の旅行に行くと言って街を離れるが、最終的には子供を中絶する手術を受けていたことを明かす。つまり、その相手の父親は……。
ちなみに手がかりはケネディー以外にもいろいろある。たとえば小説の冒頭で鼠が10本の指を点検する癖があるのは、恋人の指が9本しかないことのサインだとか。
そして、この2人の間で変則的な三角関係のような位置を占めている主人公の心理もまた最後まで意味深な言葉で仄めかされ続けるだけになる。この微妙で繊細な心理が『風の歌を聴け』のテーマなんだけど、これに突っ込むと相当長くなるからやめとく。
ただ、手がかりはある。「ケネディー」の符号が配置されている人物がもう一人いるからだ。それが、主人公の3人目のガールフレンド、自殺した仏文科の学生である。
僕は彼女の写真を1枚だけ持っている。裏に日付けがメモしてあり、それは1963年8月となっている。ケネディー大統領が頭を撃ち抜かれた年だ。
この女性は続編の『1973年のピンボール』では直子という名前がつけられ、村上春樹がこの後作中で何度も描く女性の原型となる。言うまでもなく『ノルウェイの森』の同名の登場人物であり、『世界の終り』に出てくる図書館の女の子も同じキャラクター。
じゃあこの女の子の自死がどう関わってくるのかと言うと、有名な次の一節がある。
「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか……もっと先によ。」
「もちろん結婚したい」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」
「……子供は何人欲しい?」
「3人。」
「男? 女?」
「女が2人に男が1人。」
彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た。「嘘つき!」
と彼女は言った。
しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。
何が「嘘つき」なのか。
よく見ると、子供に関する質問にのみ文頭に「……」がついている。
この時、主人公の恋人は子供を身籠っていた。そして、このおよそ半年後に恋人は自死を選ぶ。
小説の中で示されている時系列を注意深く追うと、この会話が行われたのは1970年夏から遡った去年の秋(1969年の秋)で、この3人目の恋人が自殺したのは翌年の春(1970年春)になっている。
つまり、作中の回想で夏休みに神戸に帰省している主人公は、自分の恋人が自殺するというとてつもない事件が起きてから半年も経っていない。そのような精神状態に置かれている主人公の語りによってこの小説は進行している。ポップカルチャーのアイコンが延々と引用されるしゃらくさい語りにも関わらず、この作品に死の影や陰鬱な暗さや閉塞感が漂っているのはこのためだ。
これが、鼠とその恋人へ関わり続ける1970年夏の主人公や、ひいてはこの小説を書こうと思った1978年の『僕』(デビュー作のこの時点では実質的には作者の村上春樹とそんなに距離がないだろう)の、根源的な動機になっている。
今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈み込んでいく。
弁解するつもりはない。少くともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、像は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。
小説の最初に置かれたこの文章は、この作品の全体を説明するためのステートメントになっている。
結局この小説の内容はなんなのか。恋人の自殺によって心に傷を負った『僕』の「自己療養へのささやかな試み」だ。
なぜこんな入り組んだ複雑な構造になっているのか。「正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈み込んでいく」からだ。
そういったところからいろんな領野に影響を及ぼす世界的作家はその表現を始めた。