前回は吉本隆明の影響元の西洋社会思想を書きました。今回は近代社会思想と吉本隆明の思想が繋がる点を書いて、次回は共同幻想論がこれらの思想から離れる部分を書けたらいいなという感じでいます。
そういうわけでヘーゲルからマルクスと吉本隆明が繋がる点を探すんですが、最もまとまっていると思うテキストがこれです。
ヘーゲルについて(吉本隆明の183講演 – ほぼ日刊イトイ新聞)
晩年の吉本隆明はよく糸井重里と本を出していました。ぬるい本も多いけどわりといい本も多いです。
で、ほぼ日のこのコーナーなんですがタイトルの通り吉本隆明の講演アーカイブがアップされているものです。テキスト化もされています。たぶんよっぽど並々ならぬ思い入れがあるんだと思います。
が、しかし、率直に言ってとてつもなく読みにくいです。まず本人が吃りや淀みが激しくてあんまり話し上手とは言い難い。そしてそれがテキストにもきっちり拾われている。ちゃんと出版されている本はいかに編集者の功績が大きいかわかります。
ただ逆に無編集なだけに「実質編集者の作品」みたいなことにはなっていません。あとなんというか吉本隆明の人柄みたいなのも伝わると思います。
ここからへーゲルとマルクスに関する部分を抜き出します。
3 法は『一般意志』という考え方
ヘーゲルが言う場合には、「一般意志」っていうことでもって、「法」っていう言葉を解釈しているわけです。ですから、たとえば、ヘーゲルは、「法」っていうのと、法に違反する行為をした場合に、これこれの意図で法に違反する行為をしたっていうふうにして、それは結果的に悪い影響を及ぼした、あるいは、良い影響を及ぼした、そういうふうな場合に、意図がどうであるかってことは、法とは関係ないっていうのが、ヘーゲルの考え方です。
意図なんかとは関係ないって、法のほうは関係ないんだ。つまり、良い意図でもってやっても、悪い結果が出ることがあって、法に触れるってこともありうるわけだし、悪い意図でやっても、その結果が、いいことになっちゃったこともあるから、法っていうのは、それを行使する行動によって何かをする人が、どういう意図を持っているかってこととは、法とは関係ないんだっていうふうに、ヘーゲルはそういうことを言い切っています。
それから、もうひとつ、重要なことであれしているのは、法っていうのはやっぱり道徳っていうこと、つまり、倫理ですけど、倫理・道徳とも、あまり関係がないんだっていうことを言っているわけです。
それはやっぱり、法的にいえば、モチーフが良くて行った行為でも、結果として、倫理・道徳に反するっていう行為をしちゃうってこともありうると、また、逆の場合もありうると、つまり、図らずも、法的な一般意志に触れて、結果として、それは違法行為で、良い意図でやったんだけど違法行為だっていうふうに言われちゃうってときもあると、ですから、そういうふうに考えていくと、法っていうのは道徳ともぜんぜん関係ないと言えるんだっていうのが、ヘーゲルの考え方です。
法が一般意志であるというテーゼで出ています。一般意志の定義及び解釈についてはここで論ずるにはあまりに巨大な問題なのでとりあえず私なりにざっくりとだけ敷衍しておきます((『社会契約論』にあたってもルソーの一般意志の定義はかなり曖昧で抽象的です))。ヘーゲルの法哲学において重要なテーゼは、国家の意志と個人の意志は一致しているということです。「法」は原語のドイツ語では”Recht”に該当し、これは「法」「権利」「正義」の3つの多義性を持っています。つまり、法とは市民ひとりひとりの正義を実現(現実化)するものなわけです。
この講演での吉本隆明の要旨は、日本における「法」のイメージを分析することです。つまり、日本においては、現在もなお「法」と聞いてイメージされるものが近代的な立憲主義や民主主義によって基礎づけられる形になっておらず、古代国家や武家社会や宗教的戒律などを引きずった情緒的な道徳や倫理の形態から脱皮できていないというものです。前回少し書いた日本には今もまだ国家機関に宗教の残滓があるという話にも繋がります。
それで、ぼくらがヘーゲルの法の考え方で、非常にわかりにくくて、しかも、非常に引っかかった部分っていうのは、どういうことかっていうと、ふたつあるわけです。ひとつは、ヘーゲルは法を一般意志だって、つまり、100人なら100人の市民が、それぞれ違う意志を持っているんだけど、そのなかで、100人に共通したところだけを抽象したものが一般意志、法として差し出される一般意志なんだっていうヘーゲルの解釈をとりますと、ようするに、法は、日本国なら日本国をとってきますと、日本国の市民社会の市民のそれぞれの意志の違った点は捨象しちゃって、共通な点だけを抽出したものが法だっていうことになるから、それは、日本に1億人なら1億人の個人がいるとすれば、1億人に共通した意志を抽象して、そして、持ち出したのが法じゃないか、だから、それは1億人の意志をある意味で象徴するっていいますか、代表するってことになるじゃないかってことに、ヘーゲルの法の理解ではそういうふうになります。そこがひとつ、ぼくらが疑問としたところなんです。
さっきの続きです。この一般意志の解釈はたぶん物言いをつけたくなる方もおられるかと思いますが、ひとまずこの文脈では問題になりません。
次に、このヘーゲルの法哲学への応答としてマルクスの話が出てきます。
その疑問は、幸いにもっていいますか、同時代っていうより、ヘーゲルの一世代後っていいますか、2,30年を一世代としますと、一世代後のマルクスみたいな人が、やっぱり、そこのところを鋭く突っついていまして、そうじゃなくて、ヘーゲルの言うように、法っていうのは一般意志だっていう、その云い方はいいだろうと、しかし、これが、たとえば、その法の下にある1億人なら1億人の市民、あるいは、国民の意志の共通に、抽象した共通性なんだっていうふうに、すぐに言っちゃっていいのかっていったら、それは、厳密にいえば違うっていうふうにマルクスは批判したわけです。そうはいかないよっていうふうに批判したわけです。
そこのところは、やっぱり、ぼくらも、それほど鋭くはそう思わないんだけど、なんとなくそうかなっていう疑問を持っていたところだから、マルクスの考え方に、非常に共鳴するところが多くて、ずいぶん、そこのところはよく突っついて、自分なりに突っついたわけです。
これはヘーゲルの法哲学を批判的に継承した初期マルクスの思想と捉えていいと思います。ヘーゲルの死後、ヘーゲル学派は神学的な右派と唯物論的な左派に別れますが、左派からマルクスが出てきます。
再び生松敬三先生の本に頼らせてもらうと、
かれはヘーゲルにしたがって、国家を「人倫的理念の現実態」、「理性的自由の実現」と考えており、現実の国家がその概念に合致するものではないにしても、ほんらい国家は「人倫的人間の自由な結合体」たることを目的としているのであり、(…)。あくまでも「われわれは内的理念の本質というものさしを、事物の存在にあてがわなければならない」とマルクスは言う。「内的理念の本質」によって現実を批判し、理性的なものを現実たらしめようという立場を支える基準は、ヘーゲルの法哲学にほかならなかったわけである。(…)
ヘーゲルの『法の哲学』の序文には、有名な「理性的なるものは現実的であり、現実的なるものは理性的である」という命題が記されている。ヘーゲルにおいてはあくまで均衡を保ったもの、ないし同義反復的なものとして述べられているこの命題は、しかし、考えてみれば、前半に力点を置くか、後半を重く見るかによって当然二つに分裂するはずの命題の連結である。つまり、前半は理性的なるものの現実化を、後半は現実的なるものの合理性を説くものと考えれば、前半からは現実を合理化する現状変革の線が、後半からは現実の合理性を根拠づける現状是認の線が出てくるわけである。
いまだによく言われるように、ヘーゲルの哲学はあらゆる領域が論理でガチガチに縛られている巨大な体系で、論理的繋がりに無理があるだろうと感じる部分も多いです。また、民主主義よりも立憲君主制のほうが良い政体だとはっきり言い切っていたりとイデオロギー的に批判されることもあります。これらの問題がマルクスの出発点になります。
吉本の講演はこのあと少しマルクスを離れて、自分の体験から来るたとえ話になります。
4 法はほんとうに共同意志なのか-マルクスの批判
その場合に、どうやったらほんとかねっていいましょうか、ほんとに1億人の一般意志の共通性がこのなかに入ってるのかね、法の中に入ってるのかねっていうのを、そういうのはちょっと疑問だよなってこととか、マルクスの言うように、それはそうじゃないって、そうはいかないんだっていうことを、うまくわかりやすく自分に実感的に納得させるには、どういうふうに考えればいいかなっていうのも、自分なりに考えたわけです。
ぼくなんかよく考えて、そういう例を引いたりしたんですけど、だいたい人間はふたり集まったところでは、これは集団とは言えないわけなんです。ところが、3人以上集まると集団なんです。3人以上集まろうが、1億人集まろうが、それこそ共通な一般意志として、共通な部分がかならずあるんです。3人以上を共同体なんだって考えれば、3人であろうと、1億人であろうと、おんなじだっていう面が、共通で取り出せるんです。
「人が3人集まったら一般意志が生じる」というのは、吉本の体系としては完全に共同幻想のことを指しています。2人の場合が対幻想です。
このあとの部分は(喋りが下手なせいで)かなり読みにくいので下で簡単にまとめ直しました。
それなもんだから、それじゃあ1億人っていうとわかりにくくなるから、3人ってことにしようじゃないかっていうので、どういう例がいいかって考えて、ぼくらは文学やっていて、よく自分らで、同人雑誌みたいなのをつくってやったりしてきたから、同人何人かでやってきた、それを例にとれば、いちばんいいんじゃないかっていうふうに考えて、例えば、3人なら3人で、同人雑誌をつくろうじゃないかって、3人で相談したと、よかろうって3人が賛成して、つくろうってなったと、どういうふうにしようかっていった場合に、いまはそうはいかないでしょうけど、月に1万円なら1万円ずつ出し合って、それでまず、半年ぐらいそれを蓄積して、蓄積した金でもって、同人雑誌を出して、ある程度、定価をつけて、全面的じゃないにしろそれを回収して、また次に1万円を積み立てたやつを加えて、次の分を出すってしたらどうだっていうふうに、お金のことは、いちばん重要ですから、3人とも、1万円は高すぎるっていうのもいるし、もちろん、それは1万円じゃ足りないから10万円ずつにしようじゃないかっていう人も3人のうちにいるわけですけど、共通に納得したのが1万円だとすると、少なすぎると思っていても納得だっていう人もいるし、すこし多すぎるなって思っていても、おれの小遣いじゃまかなえないって思っていても、まあいいやって納得して、1万円って取り決めができるとします。
それで、3人で1万ずつ積み立てていくと、1号目ぐらい出たけと、2号目ぐらいになって、またそれを積み立てる場合に、たとえば、A,B,Cでやってんだけど、CならCってやつが、こんなことはいつでも起こりうるわけですけど、病気になっちゃったとか、失業しちゃったとかっていうようなことで、ちょっと1万円月々払ってっていうのがきつくなったぜっていうことっていうのは、しばしば起こりうるし、ありうるわけです。そういう場合に、どうするかっていうことになるわけです。そうすると、1万円払えなくなったCが、同人の集まりのときに、どうもおれはこういう事情で払えなくなっちゃった。だから、おれ、同人雑誌から抜けるか、そうじゃなければ、後払いっていいましょうか、出世払いでいいからっていうことで、おまえたちふたりでおれの分まで負担しといてくれないかっていうので、それで、あとのふたりが、よろしい負担するっていうふうに言っている間は、3人で同人雑誌は続くんですけど、そうじゃなくて、ある程度、そういうふうにやっていたら、いつまでもこうしてたらこっちも苦しくなっちゃったと、あとのふたりが、A,Bが言いだしたと、そうすると、A,Bはやっぱりやめようと、あいつは払えないんだ、ちょっと同人をやめてもらおうじゃないかというふうになることは、また、これもよくありうることで、やめてもらおうじゃないかって同人会のときに言って、A,BがCに、どうもおれたちもきつくなっちゃたから、おまえの分まで払えなくなった、仕方がないから、おまえは同人をやめてくれないかっていうふうになって、それは仕方がないって言って、Cは同人からやめるっていうふうになるってことはありうるわけです。
この「同人雑誌の積み立て金」の話は吉本が共同幻想を説明するとき非常によく使う、わかりやすいようなわかりにくいような微妙なたとえ話です。
要約すると
①A、B、Cの3人で同人雑誌を作ることになった
②そのためにサークル費として毎月ひとり1万円ずつ支払うルールを作った
③Cが病気や失業などで1万円を払えなくなったのでサークルを抜けざるをえなくなった
これだけです。
これは、1億人の場合でもおんなじであって、そのなかのある部分が、ちょっと払えなくなっちゃったって言って、月々の会費1万円っていうのが、3人の共同意志なんで、3人とも納得してつくったものなんですけど、それが履行できなくなっちゃうと、共同意志から落ちちゃう、脱落しちゃうわけです。これは、1億人いたっておんなじで、1億人のうちの1000万人が脱落して、1万円払えないって、そういうふうに、もしなったとしたら、ヘーゲルのいう共通意志、ないしは、共同意志っていうものから自分は脱落してしまうわけです。そういうことっていうのはあるじゃないかっていうのが、ようするに、マルクスの考え方です。
マルクスは、露骨にいえば、当時の時代でいえば、あんまり金がなくて、貧乏して、食うか食わないかってやってる人たちっていうのは、いちばんそういう意味合いで、共同意志から落っこちちゃうっていいましょうか、脱落しやすいのは、その部分じゃないかと、そうすると、共同意志っていうのは、得てしてそういうお金がなくて困って、しょっちゅう働かなくちゃ食えないし、また、そうやって働いているうちに病気にもなりやすいっていう、そういうやつが、共同意志から外れちゃっているにもかかわらず、共同意志のような格好をとっているってことがあるじゃないかっていう疑問が当然生ずるわけです。ぼくもそれはちょっと実感的に、3人で同人雑誌やって、会費をいくらって、そういう取り決めを実例として、それはマルクスのいうほうが正しいんじゃないかなって思ったわけです。
つまり、ありうるんじゃないかって、それで、そういうふうに共同意志たる法を変えるかっていったら、変えないで、もとのまま共同意志だっていうことになって、それが通用している。しかし、実質上、社会状態をみても、そのうちの1000万人は共同意志から外れちゃって、それで、通用しないところにいるんであって、むしろ、通用しないっていうのが、今度は多くなっちゃって、人数がそっちのほうが多くなっちゃうと、脱落するほうが多くなっちゃうと、もう、つくられた共同意志っていうのは、はじめは、たしかに全部が、全員が賛成して決まったんだっていうふうに、1億人の共通の意志だって言えるんだけど、脱落する人たちのほうが多くなっちゃったら、共同意志っていうのは、しばしば、人間の集団の意志、つまり、共通の意志とは逆立ちしちゃうって、逆立しちゃうってことになるんじゃないのか、ヘーゲルからマルクスの時代になっていったときに、ますますそうなっていったわけですけど、これはそこから脱落しちゃったやつのほうが多くなっちゃってるんじゃないかと、それなのに、これは共同意志だ共同意志だって言ってるのはおかしいじゃないかっていうふうに、マルクスはそういうふうに考えて、ヘーゲルの法っていうのの考え方に対して、法は共同意志であるっていう考え方に対して、異を唱えたっていいますか、それは違うと、条件いかんによっては、ぜんぜん逆さまになっちゃうことっていうのはあるよ、つまり、共同意志じゃなくて、人間の共同意志の大部分からみると、それは逆さまだっていうふうになっちゃうってことはありうるよってことを、マルクスは批判しているふうに思います。
この考えは初期マルクスの思想では疎外論の問題圏内にあります。つまり「人間が自らの精神を外化したものが人間にとって敵対的になる」事態です。
つまり、ヘーゲルにとっては法(一般意志)は市民の意志と一致した理念でしたが、マルクスにとっては「現実的には」そうでないものです。というか同人雑誌の話出さなくとも、時間が経って現状とは合わなくなっているルールや法って直観的にいくらでも思いつきますよね。
吉本隆明の使う「逆立」という用語の解説もここにあります。なぜ「対立」や「敵対」ではなく「逆立」なのかはいまだによくわかっていないんですが、一般意志や法も本性は人間の精神なんだということを強調するためのものなのかもしれません。ルソーやヘーゲルも一般意志や国家を擬人的というか、1つの生き物のように書くことがあります。
ぼくらはそういう実感的実例っていうのを、自分なりに考えだしまして、たしかにそういうふうにいえば、取り決めたときには、たしかに1億人の共同意志だったかもしれないけど、それをやっているうちに、どうしても事情があってそこから外れざるをえなくなった人からみれば、それは共同意志でもなくなったってなるし、それから、今度は、それから脱落しちゃった人間のほうが多くなっちゃったら、これは、1億人のうち7000万人なら7000万人の人の意志とは逆立しちゃっているじゃないか、逆さまになっちゃってるじゃないかってことも言えるようになると、半分を越せばそういうふうになります。そういうふうに言えるっていうふうになる。
そうすると、法っていうのは共同意志だっていうことは、ヘーゲルの言い方はいいとしても、しかし、実際問題として見てみれば、この共同意志は、100人の人の意志を集めて、その中から共通性を抽出したものだっていうふうには言えないぞっていう、条件をつけなきゃこれはダメだっていうふうに、マルクスはそういうふうに考えたわけです。それが、おおざっぱにいいますと、マルクスのヘーゲルの法についての考え方の非常に大きな批判のポイントのひとつなんです。
以上でざっと共同幻想論に繋がるところまでの社会思想史を拾えました。共同幻想論も大きなモチーフとしてはほぼこの図式を引き継いでいます。
次の部分は直接は関係ありませんがわりと面白いので引用します。
5 国家についての突きつめた考え
もうひとつ、疑いっていいますか、マルクスが批判した点が、もうひとつ、あるんです。それは、国家っていうことなんです。これはヘーゲルの独特っていいますか、徹底した考え方なもんですから、われわれが常識で考えているものとちょっと違ってくるわけなんですけども。
ヘーゲルの考え方は、非常に徹底した考え方なんで、ヘーゲルは共同意志なる法っていうのは、守護者としても、番人としても、それから、監視者としてもっていいますか、あるいは、立法を督促する機関としても、法っていう概念が成立するためには、ぜひとも、絶対的に国家っていう概念が必要であるっていうふうにヘーゲルは考えた。
一般的にいえば、国家っていうのは、ようするに、あってもなくてもいいわけだし、それから、国家なんてのは、いつでも国家なんて頭に置いて生活しているわけじゃないですから、それは、あるときだけ、国家っていうのは、意識にのぼったりしますけど、それ以外のときには、あんまり、直接の拘束性とか、直接の規定とか、そういうのを感じなくて、日々、生活しているわけです。
ですから、そんなにきついことじゃなくていいわけなんですけど、結局、ヘーゲルの哲学の徹底性っていうのは、そこにあるわけですけども。結局、突き詰めていけば、共同意志っていう場合の共同っていうのは、何かって言ったら、これは国家である。つまり、近代国家である。国家っていう概念があるところでなければ、法っていう概念が成り立たないよ、これは不可分であるってヘーゲルは考えたわけです。
これは、たぶん、当時からいうと、徹底のしすぎっていうふうに、当時一般の思想家とか、哲学者から、そう言われたに違いないと思いますし、また、われわれがいま考えても、その当時もそうだったと思いますけど、そんなに、専制凶悪政治でない限り、しょっちゅう日常生活が、国家が頭になければ生活できないかっていうと、そうじゃなくて、そんなことは忘れて、生活しているっていうのが大部分で、ときに、国家っていうのを意識せざるをえないっていうようなことが起こるっていうのが、たとえば、ごく普通の市民生活のあり方だと思うんですけど、ヘーゲルはそれを突き詰めて、市民社会っていうものの上に、もし共通の意志である法っていうのをつくるとすれば、その法っていうのは、国家っていう制度がなければ、それは法っていうのは成り立ちようがないじゃないかっていうふうに考えて、ようするに、法っていう概念と、国家っていう概念は不可分であるぞ、あるいは、近代国家って言ってもいいんですけど、それは不可分であるぞっていうのが、ヘーゲルの考え方だっていうふうに思います。
そうすると、いちばんわかりやすいのは、違う言い方をしますと、国家がどういう政治体制をとるかとか、法的な体制をとるかっていうことの、だいたいのおおよその、おおづかみの方向とか、方針を決めたものが憲法であるっていうふうに、つまり、憲法っていう法は何かっていったら、共通意志たる法と国家とが不可分であると考えた場合に、国家の法を監視するとか、行わせるとか、そういうことの機関と不可分であるというところで考えられた制度の、政治の政体とか、法律のあり方とか、方向性とかっていうのを決めたものが憲法であるっていうふうに、こう考えるわけです。
ヘーゲルの考え方っていうのは、徹底的にそういうふうになる。この国家っていう考え方は、厳しい考え方です。突き詰めた考え方です。これは、やっぱり、マルクスにも受け継がれているわけです。
つまり、国家っていうのは、そこまで突き詰めなくたって、市民社会にそんなに不自由しないんだよって、時々思い出せばいいんだよとかいうふうな程度でいいはずなんだけど、哲学として、法とか、国家とかを突き詰めると、結局、そこまで突き詰めちゃう以外にないってことになって、そして、憲法っていうのも、そこまで突き詰めれば、国家のあり方、あるいは、法的な制度、あるいは、政治的な制度のあり方っていうのを、だいたい決めていくのが憲法だっていうふうな、憲法の規定の仕方になるわけです。そうすると、この憲法っていうのは、ものすごく重要なものだっていうふうに、つまり、西洋近代的概念ではそういうふうになります。
「国家や憲法というのはときどき思い出すくらいでいい」というのは(1)で書いた大衆社会における毎日の生活にプライオリティを与えるという話になります。さて、一般的な思想だと「日本はいまだ立憲主義になっていない」からは「立憲主義に則った国家になるべきだ」という傾向になると思います。が、しかし、吉本隆明はこのあたりにも微妙なよじれがある気がします。なんというか日本の風土ではヨーロッパをモデルとした近代国家のとは別の形の国家の発展ルートがあると想定している感じがします。このへんは最後に余裕があったら書けるかもしれません。
次回は吉本隆明の思想がヘーゲルとマルクスの国家論につけ加えた要素を見ていきます。マルクスはこのヘーゲル哲学批判から経済学の研究に移り、『資本論』を書いて市民社会のプロレタリアート革命により共産主義を実現させるというヴィジョンを導きましたが、吉本隆明は経済的関係を切り離しました。つまりマルクスの上部構造・下部構想(国家と市民社会)から経済学を抜いて換骨奪胎した形が、共同幻想論のバックボーンです。代わりに導入されたファクターは文学や性、そして宗教です。
私がこの中で特に関心があるのは、宗教です。共同幻想論のアプローチは、好意的な評者によってはフーコーやレヴィ・ストロース、マックス・ヴェーバーなどと比較されることがあります。つまり社会や歴史からモデルや法則や構造を引き出すという試みです。
この中で私が補助線として引っ張ってきたいのが、ヴェーバーの宗教社会学の方法論です。つまり、宗教をエートス(行動倫理)として「理解」する方法です。これによって共同幻想論をもう少し社会学的な装いにパラフレーズしつつ理解しやすくなるんじゃないかなというのがいま考えていることです。
そういうわけでとりあえずここまでです。続きはたぶん2ヶ月後くらいです。