ミシェル・フーコー『カントの人間学』

ミシェル・フーコー『カントの人間学』

『カントの人間学』はフーコーが博士号取得のための主論文として書いた『狂気の歴史』と一緒に提出された副論文であり、カントの『人間学』を読解したその軌跡には後のフーコーのテーマが既に内包されている――。

……と概要は非常に魅力的なんだけど、内容はなかなかに読み解きにくい。本文は160ページちょっとしかなくてコンパクトにまとまってる読みやすいフーコー入門……という説明もたしかに一面においてはあってる。しかし中身が凝縮されすぎていて「そこもうちょっと詳しく説明入れてくれん?」となる部分が多々ある。

また、扱われているカントの『人間学』もあんまり読んだことある奴はいないであろう。日本語で読むには全集しかないし、カントの解説書のたぐいもほぼ三批判書に終止するので。そういう面でも読みにくさがある。

本のテーマはシンプルと言えばシンプルである。要するに、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書と『人間学』には複雑に絡み合った関係があり、それはどのようなもので、どのような意味を持つのかを明らかにするということ。

フーコーは本の前半でまず歴史学的な手つきで『人間学』が成立するまでの過程を丁寧に検証する。『人間学』は本としては晩年に出版されたが、カントは同名の講義を数十年に渡って受け持っていた。

ちなみにカントは純粋理性批判の著者として名前が残っているが、生前は人間学と自然地理学の講義で人気の先生として知られていたらしい。適当に検索して出てくるまとまった情報はこのあたり。

『自然地理学』 カント (岩波書店) – 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

フーコーは文献を隅々まで吟味しながら、数十年に渡って講義が続けられた人間学講義と、それと同時並行で構築されていった批判哲学やその他のテクストを対照させ、カントの思想の発展を見ていく。

本の前半はほぼこのこまごまとした作業で、もしかして本当にこのまま超マニアックな文献研究で終わるのか?とも思えてくるのだが、中盤に入ると徐々にフーコーが手の内を明かし始める。

『人間学』と『批判』、そしてカント最晩年の草稿『オプス・ポストゥムム』の関連性を検討してから、フーコーは謎めかした調子でこう書く。

一定の交錯するアナロジーにしたがうと、『人間学』は『批判』のネガ(陰画)らしきものであることが垣間見られるのである。

これがどういうことかというと、『批判』によって超越論的なものと隅々まで分離された経験的な領域を扱う『人間学』において、『批判』と対称性のある構造が見られるとフーコーは言うのだ。

たとえば「私」。これは純粋理性批判では、超越論的な領域の中で純粋な形式として扱われていた。しかし、人間学では事情が異なる。

それはいきなり経験の領野に姿を見せ、ひとつの形象として定着すると、もはやそこから動こうとしないのだ。

(…)

しかし、それがいったんあらわれて時系列にしたがう感覚的なものの多様性のなかに位置づけられるやいなや、この形式は「すでにそこに」あったかのように、すなわち思考にとって還元不可能な規定として示される。

あるいは「時間」。これも批判書では感性の形式として直観に秩序を与える形式であった。

反対に人間学における時間は、のりこえることのできない散逸につきまとわれている。というのも、この散逸はもはや所与と感性的な受動性のものではないからだ。むしろそれは綜合の活動が自分自身に大して示す散逸であり、綜合の活動に「戯れ」のような色合いを与える。

(…)

『人間学』において容赦なく散逸をもたらす時間は、諸々の綜合の活動を不分明で不透過なものにする。

さて、引用した部分の上の方でほのめかされているように、フーコーはこのあたりに来ると明らかにハイデガーを意識していることを明かし始める。

じゃあこの本ってつまりカントの人間学をハイデガー的に解釈する本なのかな?とも思い始めるが、答えはちがう。フーコーが強調するのは、カントが超越論的な領域と経験的な領域を徹底的に分離した、ということ。そして、それは一方から一方へ還元・根拠づけできるようなものではない。特に、フッサール以降の現象学に見られる、超越論的な主体を「世界の中の主体」へ一元化するような哲学に対し、フーコーは哲学的人間学の誤りとして厳しく批判している。この前に読んだドレイファス=ラビノウの本によると『言葉と物』ではこの問題が「三つの二重体」としてより詳しく書かれているらしい。

「体系的、大衆的」と題された第8章で、フーコーはカントが『批判』における思弁的な哲学の世界より、『人間学』で描いた、地に足のついた世間一般の世界にプライオリティを与えていたことを事細かに指摘している。「学校的(スコラ的)な知」に対する「世間知」の優位。そしてそれは、ハイデガーが頽落Verfallenと名づけていた人間の非本来性と本来性の図式を転倒させようとする試みでもある。

ある意味で、人間学とは慣用表現の総合研究のようなものだ。そこでは、どんな出来合いの言い回しにも真剣にとるべき重みがある。なにかが言われた時には、いつもなにかが考えられている。だから。問いかけ、耳を傾けさえすればよい。「退屈な会話」と「気を紛らわしてくれる人」のあいだではどんな真剣なゲームが争われているのか。「なにごとも金次第」と言われる時、いったい何が意味されているのか。それから、ありとあらゆる「道徳界の慣用表現」。(…)礼儀作法の規則、流行の風俗、社交場のエチケットや習慣(…)。そのすべてにしかるべき根拠があるのだ。とはいえ、その根拠は人間の実践以外のなにかに由来するのではないし、遠い過去に隠されているのでもない。()人間学とは、意味がはっきりしていたりいなかったりするこの出来合いの言語の解明である。

ちょっと長めに引用したけどこれは特に好きな一節なのでまあいいでしょう。前にちょっとこういう記事(金井美恵子のやつ)書いたんだけどなんとなくぬるっとそういう自分の興味にも繋がる。

フーコーはここで、ハイデガーが中身を欠いた「おしゃべり」を人間の非本来性的な頽落の様態とした図式を転倒させ、また、言語的実践を解釈し深層の真理を明らかにしようとする解釈学的な方法論にも反対している。

一方で親縁としては後期ウィトゲンシュタインやオースティン・サールのような日常的な言語実践の現場に関心を持つ哲学者あたりの比較もできますね(フーコーの「言表」はサールの「言語行為」とほぼ一致した概念であると本人たちが確認している)。フーコー本人としてはこの徹底的に経験的な領域を扱うというモチーフを発展させ、歴史学的に文献を分析・記述する『言葉と物』や『臨床医学の誕生』のような著作に繋がっていくわけですね。