戦コレ14話、非常に好きなんですよね。最近また視聴しました。
戦コレは異色のソシャゲ原作アニメで、異世界からこっちの世界に来た戦国武将(当然女の子である)の活躍が毎話オムニバス形式で描かれるアニメです。特徴として、毎回実在する映画が元ネタとして借用されており、ベルリン・天使の詩、女囚さそり、バグダッド・カフェ等、古今東西あらゆる作品が下敷きになっています。
第14話はこの個性的なアニメの中でも特に異質なエピソードで、新選組の沖田総司・近藤勇・土方歳三の女子3人によるなんも内容のないだべりが延々と繰り広げられ、特にオチも何もなく終わる。本当に何も起こらない。
僕はこのアニメを観るたびにある小説を思い出す。それが、金井美恵子『小春日和―インディアン・サマー』。これも本当に好き。人生ベストかもしれない。少なくとも十指には入る。姉妹作『タマや』と合わせて多大な影響を受けたと言ってもいい。
当然、こっちの内容も女子が延々とだべり続けるだけ。そのだべりの強度に関してこれ以上の作品を知らない。
『小春日和』は、著者の金井美恵子がキャリアの中期に差し掛かった頃に書かれた小説。繊細な筆致で書かれた初期作を評価する人も多いけど、僕はこの作品を含む独自の口語体で書かれた目白四部作が好きです。
あらすじは主人公・桃子が大学入学に伴い上京し、東京で小説家の叔母の家に居候しながら周りの人間とだべりながら生活を送る、という感じ。
小説家や哲学者、そして映画作家の固有名詞が飛び交うチャラチャラした衒学趣味に80年代のニューアカ的な空気を読み取ることも可能でしょうが、この作品は作者の感性の鋭さと同時代の空気への周到な距離の取り方によって、「その時代の作品」以上のものになっていると思う。
実際読んでみると、作者はおびただしく引用される固有名詞の数々とその衒学的な会話の空虚さを、女子大生の目線を通じて自覚的に書いてるように思える。
むしろ、そのような空虚さから暗示されているだらんとした空気感や、そして少女小説の伝統構造を借用した上京女子大生の生活の方がほんとうの主題なのではないか。
技巧的な面では、この小説を読む誰もが最初に面食らうであろうほとんど句点がなくセンテンスが延々と続く特異な文体が、べたっとした時代性を切り離し異化するという効果を持っている。このような周到さがこの小説に今読んでも古びていない新鮮さを与えている気がします。
さて、この2作品に共通する特徴として、日常のなんてことのない些事が異常に細かく描写されます。仲間とだべる、昼寝する、鬱陶しい男から電話がかかってくる、コンビニに行く、映画の入場料と東西線の片道運賃に文句を言う、風呂に入る、夜に自転車を漕ぐ、鍋をする、その他色々。時計で計れば数分間くらいであろう些末な出来事が異常なほど拡大される。あるいは時間を引き伸ばすように。
世に存在するだいたいの物語には、基本的に結末があります。登場人物たちはみなある終局に向けてその物語を歩んでいる。
しかし、この2作品において彼女たちの暮らしぶりが何かしらのストーリーを進めるのかと言ったら別にない。というかストーリーと呼べるほどのものが存在しない。
マルティン・ハイデガーは、現存在の非本来的な様態を「頽落」とし、その現れ方は空談、すなわち中身のないおしゃべりであるとしました。現存在は内容のないお喋りによって、本来性であるところ死(終わり)を忘却し続けている、と。
しかし、彼女たちはこの図式を逆転させ、中身のないお喋りにある種のポジティブな意味を付与しているように思えます。永遠に続くとりとめのないお喋りで終わりを繰り延べし続けているかのように。
ぬるくだらだらしたお喋りはいつか壁に当たって終わりを迎えるかもしれない。しかし、細部を極限まで拡大し、時間を引き伸ばし続けることで、差し迫る終わりを超えていけるようなこともあるんじゃなかろうか。僕はなくもないような気がする。ひとつの可能性として。