そろそろ吉本隆明のことを書いておくか(1)大衆と思想

そろそろ吉本隆明のことを書いておくか(1)大衆と思想

7月のNHKの100分de名著が『共同幻想論』だったらしいです。

www.nhk.or.jp

安藤礼二『吉本隆明: 思想家にとって戦争とは何か』のような選書も出ていますが、吉本隆明の入門書と言っていい本がちょくちょく出ています。最近のアメリカでもリバタリアニズムが復権しつつあるらしいので、なんとなくそういう空気になりつつあるのかもしれません。

100分de名著のテキストを見ると、担当の先崎先生は1975年生まれで、吉本を読んだのは1990年代みたいです。これは個人的にシンパシーがあります。なぜなら私も後追いだからです。私は1987年生まれでおそらく吉本の読者としてはかなり珍しい世代に入ると思います。

吉本隆明は1960年代の全共闘世代のカリスマとしてのイメージが強く、後年語られるときも「あの時代はすごかった」的な、ほぼ過去の人という扱われ方が大半だったような気がします。思想的なバックボーンがマルクスなので、ニューアカ以降はどの時代も一定数いる哲学青年タイプの人間にもあんまりアクセスされてないと思います。

また、吉本の文体には、なんというか名文といったような趣は、ありません。品格は輪をかけてありません。小林秀雄のように大学生の教養のレッスンとして長く読み継がれるような可能性はたぶんないと思います。ただ、代わりに文体に魔力のようなものがあります。たぶん好きな人は好きだけど、受け付けない人は憎悪に近いレベルで忌避していると思います。

そういうわけでまあよっぽど変な奴じゃないと掘り返して読まんような作家に落ち着くかな~と思っていたんですが、前述の通りわりとちょっとアクチュアルな文脈で評価される流れ来つつあるかな?と思ったので、そろそろ個人的にも自分の考えまとめるためにも頑張って書いてみようと思います。

吉本隆明の仕事は比較的読みやすい文芸批評や、独自の言語論、サブカルチャーへの言及など様々ですが、とりあえず個人的に最もよく読んだ政治思想を扱います。

導入編と読書案内

だいたいの思想家や批評家に言えることですが、吉本隆明の考えることには一定の原理というか思考の図式みたいなものがあります。そのへんを掴めればあんまり問題ないんですが、なにしろ文章が取っつきにくいのが難点です。

それらの図式の全体的な見取り図としては、このあたりがいいかと思います。令和の世なので電子版も出ています。

日本語のゆくえ (知恵の森文庫 t よ 4-3)

晩年の講演をもとにした本で、『共同幻想論』と『言語にとって美とはなにか』という、吉本隆明の理論的なところを支えている2つの作品がコンパクトに解説されています。

欠点としては、(おそらく編集によって)吉本特有の粘っこさや含みが削ぎ落とされていて、わかりやすくなりすぎています。ある程度哲学や史学や文芸批評を読み慣れている人であれば、疑問符をつけたくなる記述が多いと思います。ただとりあえず思想的にどういう領野を扱っていた人なのかは見て取りやすいと思います。

また、政治思想的な立場の理解としては、このあたりがストレートにスタンスが表明されていてよいと思うんですが、こっちは絶版で入手がたるいのが難点です。

私の「戦争論」 (ちくま文庫)

ただ、この記事書くのに目を通しましたが、やはり吉本隆明の入門編として1冊でコンパクトにまとまってると思います。自らの戦争体験とか純粋にためになることを言ってるというのもありますが、現実的ないろいろの問題にスパッと回答しているので、吉本の思想的な立場がわかりやすいはずです。一般的な良識や常識だと受け入れがたいこと言ってる部分も多いと思います。ただ吉本隆明の聞き書きの本はわかりやすい代わりにそういう危なっかしい部分が切り落とされている傾向があるので、そういう意味でも貴重です。

大衆の思想

前述の『私の「戦争論」』の序盤に吉本の代表的なスタンスがよくまとまっている部分があるので、長めに引用します。

 漱石のような大文豪が、なぜ死にもの狂いになって三角関係のことを書くのか? 三角関係なんて、つまんないといえば、つまんないですよ。三角関係が、なんでそんなに重大なのよってことになっちゃうわけです。でも、それは市民社会で生活している人たちにとっては、やっぱり、重大なことなんです。細君のほかに好きな女性ができちゃって、にっちもさっちもいかなくなっちゃった。(…)それは、人間の生死をかけた問題なんです。
ところが、左翼も右翼も市民主義者も、その構造すら似ていて、一見、小さなことのように見える情緒の大切さを見据える視点を、とかく、スッポリ抜け落としちゃうんです。見かけ上、”大問題”のように見える問題のときほど、そうです。(…)
だから、そこを尊重する。つまり、市民社会における人間関係の錯綜とか、葛藤とか、男女間の悩みとか、失恋して悩んだとか、そういう人間のあり方、まあ人間の弱さといいましょうか――そこには生産的なことは何もなく、そこにあるのは、むしろマイナスのことだったり、退廃的なことだったりするわけですが、そういう市民社会のスッタモンダを否定しちゃダメなんだ、そういうところに人間らしさを認めることができる視点を持たなければダメなんだ、ということなんです。
なぜなら、一日の生活のうち、つまり二四時間のうち、人間は大部分は、そんな小さな喜びや悩みの中で生きているからです。(…)その上で、戦争・平和・政治制度・社会といった、”大問題”を考えるべきである――(…)

ここで使われている市民社会という言葉遣いはマルクスに由来していますが、吉本はこの言葉にきわめて所帯じみた生活臭さのする含みを込めています。

簡単に言えば、吉本隆明という人は、「知識人は大衆に向き合わなければだめなんだ」ということを延々と言ってきた人です。浮世離れしたスノッブな思想はダメだという立場です。ニューアカ以降の日本思想界で読者減っていったのはこの傾向が大きいと思います。初期からフーコー評価してたりするんだけどね。

さて、この姿勢はわりと共感を得やすいと思います。そもそもリベラル知識人との論争においてこういう切り口持ち出すのは、論法としてかなり強いと思います。しかし、ここで課題となるのは思想の実効性です。吉本はよく「思想に大衆の原像を繰り込む」みたいな言い方をしますが、この「大衆の原像」という概念?のような用語へは何度も疑問符が付されています。

では吉本隆明の思想にこれらを批判を通してなお自立性のある立場があるのかというと、それを次に書きます。

吉本隆明の基本は個人主義と自由主義

上に引いた一節のちょっと後に吉本はこういうことを言っています。

(…)個人と国家や公を対比させて言うなら、個人のほうが国家や公よりも大きいんです。先程、市民社会のスッタモンダを否定しちゃダメなんだ、そういうところに人間らしさを認める観点を持たなきゃダメなんだといいましたが、それは言葉を換えれば、市民社会のほうが国家や公よりも概念としては大きいんだ、ということです。戦後、僕はそういうことをマルクスから学びました。それは目からウロコが落ちるような体験でした。
市民社会のほうが国家や公より大きいんだという観点をちゃんと持ちえて、その観点に立っていうなら、市民社会で生活している個人のほうが国家や公より大切で、大きいんだと考えるほうが、まっとうなんです
(…)
ところが、左翼も右翼も市民主義者も、その構造すら似ていて、一見、小さなことのように見える情緒の大切さを見据える視点を、とかく、スッポリ抜け落としちゃうんです。見かけ上、”大問題”のように見える問題のときほど、そうです。

「個人のほうが国家や公より大きい」というちょっと独特な言い回しがありますが、これは簡単に「私生活のほうが公的な物事より優先する」くらいに読んでいいです。所帯じみた毎日の生活のことです。

要するに吉本はここで「滅私」みたいな事態はもってのほかだと言っているわけです。このスタンスは戦中世代である吉本隆明の戦争体験に由来しています。また、もう一方で重要なのは、これが右派や通俗的保守主義に対してだけでなく、左派の知識人における同調圧力や、正義を希求する傾向への批判という性格も持っているところです。シリアスな言葉づかいが持つ欺瞞への抵抗です。

そして誰からも批判されることもない場所で「地球そのものの破滅」などを憂慮してみせることが、倫理的な言語の仮面をかぶった退廃、かぎりない停滞以外の何ものでもないことを明言しておきたい。

――『「反核」異論』

じゃあそのような批判を前提として吉本自身にの肯定的な思想的立場と言えるものはなんなのかというと、一種の自由主義です。

(…)
「国家」や「社会」や「産業」の利益は個人の私的な利益に優るという概念はまるで普遍性でもあるかのように流布されていった。また「国家」や「社会」の営業と私的(民間的)な企業経営とが矛盾するときは国営、公営の方が優先するという理念を作り上げていった。
順序の論理からすれば、この順序は逆だというべきだ。
公共性、集団性、大秩序は、個人の私的な「自由な意志力」(この「自由な意志力」が意味することは後ほど説明する)の総和の意味をもつときだけ、成り立つ。個人の「自由な意志力」が減殺される場合には、集団性、大秩序は成立しないと見るべきものだ。

――『中学生の教科書―美への渇き』「社会科」

思想に大衆の原像を繰り込むこと、市民社会の所帯じみた生活を擁護すること、右派・左派を問わず党派性を否定すること、以上の前提を通して導出されてくるのは、一種の個人主義・自由主義と呼べるような思想です。

社会思想家はよく政治や社会問題などの〈公〉の領域と、文学などの〈私〉の領域の2つに分割します(例えばハンナ・アーレント)。なぜならその2つを混在させることが厳密性を損なったり、あるいは社会問題の原因そのものだったりするからです。

しかし、吉本隆明はこの2つの領域が絡み合う様相を(強引に)まとめて取り扱います。たぶんそのあたりに吉本隆明の難しさや読みにくさや抽象性の大きな要因があると思います。

国家の消滅

この個人主義というのは単なるノンポリ主義というのともまた違います。吉本はヘーゲルとマルクスに立脚していて、歴史の流れの必然性によって未来において国家が消滅するというヴィジョンを持っています。プラクティカルな次元での話としても、時事批評で公的機関の民営化などにはだいたい賛意を示していることが多いです。

結局ただの革命思想かよと思われるかもしれませんが、吉本隆明には武力革命とは別の原理と方法によって国家を解体できるというヴィジョンがあったと思います。その理論的根拠となるのが『共同幻想論』という本です。共同幻想のいろいろな形態が発生してくる理由を起源まで遡行することで、原理的に批判することができる、というのが『共同幻想論』の大きなモチーフです。

しかし、この本はきわめて難しいです。思想書として難しいというより事実上は奇書みたいなもんなんじゃないかと思います。少なくともこれ1冊のみで理解することは不可能と言い切っていいんじゃないかと思います。

『共同幻想論』を読むためには吉本隆明がもう少しわかりやすく書いてるインタビューや対談などが役に立ちますが、もう1つのルートとして私がご提案したいのは、『共同幻想論』の影響元である西洋の社会思想史を抑えておくという方法です。

そういうわけで次は『共同幻想論』を読むために、バックボーンである西洋の社会思想史を辿り直します。