共同幻想と大衆の思想
吉本の思想は個人主義と自由主義だという話までしました。そして、この個人的自由と対立し、個人を抑圧したり制限したりするもの、現実では「国家」「法」「倫理」「宗教」などの形態を取っているもの、それが、吉本隆明が「共同幻想」と呼んでいるものです。究極的にかんたんに言ってしまえば、およそ人の生活のありとあらゆる範囲におけるルールや決まりごとは、すべて共同幻想です。フーコーが言うところの「自由は権力の相関者である」わけです。
吉本隆明はこの事態を「共同幻想と個人幻想・対幻想は〈逆立〉する」と表現しています。個人幻想は文学などを、対幻想は恋愛を指します。この2つの幻想は〈私〉の領域に該当し、共同幻想とは峻別されます((この個人幻想・対幻想・共同幻想の3点セットはおそらくヘーゲルから借用した図式だと思います。ヘーゲル哲学においては家族→市民社会→国家の順に意識が発展していく段階が描かれます。ただし、概念の内実はまったく変わっています。))。
これは、前回書いた「知識人と大衆」「国家と市民社会」「公と私」の対立関係と類比的になっています。「共同幻想」は前者に、「個人幻想」「対幻想」が後者に該当します。『共同幻想論』を読む大前提としてまずこれが入っていないと読むことはたぶんむりだと思います。
『共同幻想論』に引用される夏目漱石や芥川龍之介などの各種文学作品は、共同幻想と個人幻想・対幻想が関わり合う事態が表現されているとみなされたものです。前回書いた吉本が政治と文学の関係を独特の手つきで扱う例の代表的なものと言えます。
国家の起源と宗教
たしか仲正昌樹が日本思想史を解説した本で「いま『共同幻想論』を読むと、むしろ保守の思想書に見える」みたいなことを書いていましたが、たぶん今でもそうだと思います。さっきも書いたように『共同幻想論』に書かれているのは『遠野物語』と『古事記』の読解だからです。
本の中では遠野物語と古事記を中心的なテキストとして、フロイトやニーチェ、ハイデガー、折口信夫、夏目漱石や芥川龍之介のような文学者、また江上波夫の騎馬民族征服説やエンゲルスの原始社会論といった現在ではほぼ省みられなくなった古い説までもが延々と引用されます。
本の中では延々と遠野物語と古事記の一節が引かれながら、民俗学なのか古代史学なのか心理学なのか哲学なのか、どういう領域でどういうレベルの抽象度の話をしているのかまったく掴みどころのない話がひたすら展開されます。
おそらく予備知識なしで読んだ場合、難しいとか以前にそもそもこれは何の本なのかすらわからない可能性が高いと思います。前回も書きましたがこれは難しいというより半分くらい奇書みたいな分類が当てはまる本だと思います。
前回にも書いたように、吉本隆明の思想的モチーフは、あらゆる共同幻想を解体して個人幻想と対幻想を解放することです。しかし、一方で人間が人間である限り、共同幻想はいつどこででも必ず発生します。
共同幻想も人間がこの世界でとりうる態度がつくりだした観念の形態である。〈種族の父〉(Stamm-vater)も〈種族の母〉(Stamm-mutter)も〈トーテム〉も、たんなる〈習俗〉や〈神話〉も、〈宗教〉や〈法〉や〈国家〉とおなじように共同幻想のある表われ方であるということをができよう。人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然性にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想と呼ぶことにした。いずれにしてもわたしはここで共同幻想がとりうるさまざまな態様と関連をあきらかにしたいとかんがえた。
『共同幻想論』「序」
アンダーラインは私が引きました。『共同幻想論』は要約することすら難しいんですが、大きなテーマとしては原始社会や古代の村々における、共同幻想の原始的で小規模な形態を扱っています。いまも現に存在している近代的な政府や国家を、その原始的な起源まで遡行することで、その原理や権力の正当性を明らかにしようとする試みと言えると思います(このアプローチはニーチェ的です)。
また、この一節では対幻想も共同幻想の1つとみなされていますが、私の理解する限り、対幻想も基本的には共同幻想と逆立するものだと思います。ただ1つ例外があります。それが特殊な対幻想が転化することで共同幻想と一致する過程です。これは歴史的には、古代社会の政治的首長と、宗教権力のトップであるシャーマンの巫女(邪馬台国の卑弥呼みたいな感じ)の関係にある対幻想が、一定のプロセスによって1つの共同幻想へ集約されていく事態と比定されています。
おそらく最後に書くことになると思いますが、先取りしておくと、吉本隆明の国家論のおおきな主張の1つは、「国家には宗教の性格がある」ということです。『共同幻想論』のテーマの1つとして「古代において宗教権力はいかに国家権力に移り変わったのか」というのは挙げてよいと思います。そして日本においては今日の令和の国家においてもまだ宗教が混在したままになっています。それが天皇制です。
とりあえず簡単にまとめましたがまあそうは言ってもなんのこっちゃかひとつもわからんと思うので次に移ります。
共同幻想論を西欧社会思想史から辿り直す
このような奇怪な書物にいったいどこから手をつければいいのかというと、私の提案は共同幻想論の思想的なバックボーンを、影響元の西洋思想から抑えておくというルートです。じゃあそのバックボーンとは何なのかといえば、西洋の近代社会思想、とりわけへーゲルとマルクスです。
そういうわけで社会思想史なんですが、共同幻想論に特に関係があるのは、国家論と市民社会論です。これに関して、吉本はよく次のような図を使います。
1枚目は『「反核」異論』(1983年)、下は『中学生の教科書―美への渇き』(2000年)からの引用です。
いきなり見せられてもなんじゃいねこれはとなるかもしれませんが、これらの図で重要なのは、国家と市民社会が2階建てになっている構造です。マルクスの術語でいう上部構造と下部構造ですが、吉本は下部構造の経済関係が上部構造を規定するという見方を切り離しています。
上に乗っかっている国家はだいたい日常的に「政府」と呼ばれているものと同義です。あと付け加えれば市役所とか警察とか各省庁も。そして上部の国家機構から下部の市民社会へ向けて、法律や公的サービスなどさまざまな力が及ぼされている。下の市民社会は、思想家によって様々な解釈がありますが、おおむね自由主義の経済社会と見ることができます。半沢直樹でやってるような世界ですね。すなわち、「市民社会は個人的私益を求める万人の万人に対する戦場である」(ヘーゲル)。
そもそも市民社会という概念は、17世紀から18世紀頃のヨーロッパにおいて生まれました。イギリス革命やフランス革命の時代です。当時生まれつつあった市民層を主権とする、立憲君主制や民主主義による国家の統治形態を理論的に根拠づけるために、ロックやルソーのような社会思想家が考え出したのが、この2階建ての社会構造です。つまり、無秩序な自然状態から、共同体の構成員である市民が社会契約によって国家の統治機構(図の上のほう)に権利の一部を譲渡することで、安定した市民社会(図の下のほう)が成立するというモデルです。
この考え方のポイントは、市民社会にプライオリティがあるということです。政府や君主といった統治者は自然状態の無秩序を防ぐために「仕方なく」存在しているわけです。政府は単なる業務の委託先であり、消極的で暫定的なものです。そして外注先が勝手なことしないように、国民が制定権をもつ憲法で縛っておく。ですから、王権神授説や絶対王政のような統治形態は原理的に誤っている。このような理論的根拠がフランス革命のような動きに繋がっていくわけですね。
さて、そしてこれらフランスやイギリスの思想家によって提出された国家論をさらに推し進めたのが、ドイツ観念論の哲学者です。
フランス啓蒙思想の展開は、フランスよりもさらに市民社会の現実化がおくれ、より「啓蒙」を必要とした隣国ドイツに、大きな刺激を与えずにはいなかった。しかし、十八世紀においてもなお封建的色彩のいちじるしく濃い諸「連邦国家」の分立状態に停滞していたドイツでは、啓蒙思想の担い手たる産業市民層の成長がおくれ、フランスに見られた啓蒙思想の社会批判の武器としての急進性は失われて、プロイセンの「啓蒙専制君主」フリードリヒ二世の「上からの近代化」の一手段となった。とはいえ、現実の社会変革、市民革命への道を封ぜられた新興市民層は、その内面に屈折したエネルギーを政治革命ならぬ「哲学革命」に注ぎ込んだのである。
――生松敬三『社会思想の歴史―ヘーゲル・マルクス・ウェーバー』
ドイツにおける社会思想史の展開としては、カントなども重要ですが、何よりヘーゲルです。ヘーゲル哲学の威力は、プラトンやカントが現世の彼岸、天上や神の国にのみ存在するとみなしていた事物の理念・形相、「イデア」を、現世に引き降ろした点にあります。哲学に〈歴史〉が導入され、理念的なものは歴史が完成するとき、その終わり=目的(テロス)において現世に現前するものとされます。
ヘーゲルにおいては、国家と市民社会の2階建て構造ですら克服すべき二元論的な状態です。市民社会は弁証法的に止揚され、国家が唯一の実体であるとみなされます。ヘーゲルが現世において現前するとしたイデア、「絶対精神」は、近代国家です。
国家とは、共同体の理念が現実となったものである。そこでは、共同体の倫理が明々白々たる、明晰な、実体のある意志となってあらわれ、おのれを思考し、認識し、そして、認識するところを、認識するかぎりで、達成している。国家は、慣習のもとに直接にすがたをあらわし、個々人の自己意識やその知と活動のもとに間接的にすがたをあらわすが、ひるがえって、個々人の自己意識は、その心がまえを通じて、自分の活動の本質であり、目的であり、成果である国家のうちに、共同性に根ざした自由をもつのである。
――ヘーゲル『法の哲学』第257節(長谷川宏訳)
ヘーゲルはこの傾向から、個人を軽視しているとか全体主義を招く国家有機体説とか批判されますが、ヘーゲルが言ってるのは要するに人間(特に近代の市民)は、アトミズムのように単独でぽつんと存在しているのでなく、その本性から社会的なネットワークの中で生きる動物だということです。このテーゼは社会契約説における自然状態の措定への批判であり、ヘーゲル哲学においては市民社会を揚棄するための根拠です。それら人間の背後にくっついている各種社会的属性が形を取っているのが法や権利であり、その管理者が国家です。
吉本隆明におけるヘーゲルとマルクス
さて、吉本隆明は折に触れて何度も「国家が共同幻想だという考え方はマルクスから学んだ」ということを言います。一般的にマルクスのいえば資本論書いた人で共産主義で革命思想の~ってイメージが9割でしょう。
しかし、ここにもまた微妙なわかりにくさがあります。吉本隆明がマルクスを引っ張り出す場合、経済学への言及が少ないからです。代わりによく見るのが疎外論を含む自然哲学、そして国家論と市民社会論です。私がなぜルソーから延々と国家論を書いてきたかという理由もここにあります。
これらはマルクスの思想としては、初期あるいは前期に分類されます。あるいは私の解釈ですが、吉本隆明の思想への影響としては、マルクスよりもヘーゲルのほうが大きいのではないかとも思います。
実は、吉本が共同幻想論の元ネタとしてのヘーゲル・マルクスの思想にはっきり触れているテキストがウェブにあります。私はこのコーナーだけで糸井重里にいっさい頭が上がりません。
ヘーゲルについて(吉本隆明の183講演 – ほぼ日刊イトイ新聞)
次はこれを扱います。