6周年に寄せて、Tokyo 7th シスターズの「アイドルと人間」

6周年に寄せて、Tokyo 7th シスターズの「アイドルと人間」

それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知のたんなる折り目にすぎず、知がさらに新しい形態を見いだしさえすれば、早晩消えさるものだと考えることは、何とふかい慰めであり力づけであろうか。

――ミシェル・フーコー『言葉と物』

ラピスリライツのアニメを観てたらこれはさすがにセブンスシスターズだろってユニットが出ていました。
最近の新しいアイドル作品を見ていると、ナナシスももう新しいコンテンツではないんだなーとつくづく思います。t7sの次の世代が出て来始めたのをはっきり感じる。

僕はもうかれこれ5年くらいTokyo 7th シスターズという作品を追っかけてきているわけだけど、その特徴はと訪ねられれば、主に2つの面を挙げられると思います。
1つはスタリッシュな絵柄や近未来のキラキラの世界観、洗練された楽曲を主とするもの。たぶんこれはナナシスのパブリックイメージに近い。
そして、もう1つは既存のアイドルコンテンツへのアンチテーゼとも言える強いメッセージ性と物語性。
こちらの中心に位置するキータームとしてよく出てくるのが、「人間」という言葉。個人的な理解では、Tokyo 7th シスターズという作品の歩みは大まかに前者から後者への比重の移行だったと思います。

2020年、6周年のナナシスは満を持しての長編アニメーション、そしてアプリ内でのEPISODEシリーズ完結編と勝負に来ていた年でした。いよいよ終わりが近い。自分としてもここらで曲がりなりにも受け取ってきたものをまとめたておきかったので、このテキストは上のような流れを軸にして書いてみました。

2014年のアイドル

さっきはアンチテーゼって言葉を使ったけど、ことナナシスに関しては強すぎる言葉ではないでしょう。
時代性をざっと概観しておけば、ナナシスが始まったのは2014年。ざっと関連する流れをさらえば、同年にラブライブのアニメが2期、翌年にシンデラガールズのアニメ、夕方だとアイカツが放送中でプリリズからプリパラに移り変わる、あたりが主なトピックかと思う。女性向けとかも重要なのはわかってるんだけどとりあえず。

そして、前年にWUGが始まっているのを象徴的としていいと思うけれど、このあたりから「主流のアイドルものに対する傍流のアイドル作品」が出始める下地が整ったと思う。
茂木さんの発言でも「(なぜナナシスを始めたのかみたいな質問に対して)クリエイターが何か新しいものを作るのは自分の見たいものが世の中にないから」というのがあったと記憶してる。

初期のナナシスは新興のアプリゲーとして語らえることが多かったけど、当初からやりたいこととしてはライブやアニメなど総合的なコンテンツだったでしょう。
t7sはこの後、「ゲームのアクティブは少ないのにライブになると普段どこにいるんだってくらい人が集まってくるコンテンツ」という地位を確立し、2年目には「SEVENTH HAVEN」という、コンテンツの代名詞になったアンセムも生まれる。

春風が吹く頃

しかし、その一方で、その後のナナシスは静かとも言えるような道を辿っていった。あえてこういう言い方をすれば、「SEVENTH HAVENのナナシス」は、その後ほぼ影を潜めることになった。

そして翌年リリースされたのが、MVという形を取った短編アニメーション、『t7s Longing for summer Again And Again 〜ハルカゼ〜』。

個人的にTokyo 7th シスターズで最も重要な作品といえば何よりこれを挙げます。ここでコンテンツに対する態度が一段か二段は変わった。ここには一時の熱狂ではなく、何か自分の魂の深いところで共振を引き起こすようなものがある。

話が一旦逸れますが、コンテンツ黎明期の2014年、公式同人誌という名前で出された一種のスタッフ本の中に、茂木総監督の手によるこういう一節があります。

ひどく個人的且つ、大真面目な話ですが、
アイドルは個人でも偶像でもなく「エンタメ」だと自分は考えています。

(…)

と、同時に。少なくとも自分にとっては、
誰もいない下駄箱、遠くから聞こえる吹奏楽部、図書室の揺れるカーテン、
真夏に一瞬だけ音が聞こえなくなる空、高校球児のヘッドスライディング、
それらもどうしようもなくアイドルだったりします。

一見すれば情緒だけのポエムにしか見えないようなこの一節は、ナナシスの主題をかなり端的に表現しています。たしかこの文章は2ndか3rdあたりのライブのパンフレットでも引用されていた。
そして、このテーマが最初に直接的に表現されたのが、ハルカゼだったと思う。

大手からのアニメ化の誘いを蹴って制作されたというこの作品では、重要な兆候が出ています。
それが、アイドルを扱った作品において、楽曲の「受け手」が主役になったこと。

このMVに出てくる眼鏡の子とカチューシャの子はここで新規に書き下ろされたキャラクターです。そして時代設定は本編の2034年からさらに下り、2037年となっている。
なぜこのような、ぶっちゃけて言えば初のアニメーションとしては地味な、不思議な作品が作られたのか。

私はこう考えます。ナナシスにおける一種の楽曲観、あるいは芸術観とでも言えるようなもの、さらにはTokyo 7th シスターズという作品全体のテーマを表現するためだ、と。

この作品は商品形態としても非常に珍しいパッケージになっていて、CDとBlu-rayの他にこのアニメを補足するための小説と企画書、インタビューなどの冊子が付属してます。
もう3年も前の作品なので最低限は大丈夫かな?と思うので、「企画覚書き」と題された文書から最低限だけ引用します。いいこと書かれてるからみんな買ってね。

つまり、・アイドルという存在を彼女たち自身を通して描くのではなく、彼女たちの歌が心に残っている「他の誰か」の人生を持って描く。そして、それを持って「アイドルの存在の意味の答えのひとつ」を描く。

セカイ系に反するものを作る。
ここ(現実)は視聴者と彼女たち(シスターズ)しかいない世界ではない。
(…)
この世界にはたくさんの人が生きていて、そこで「アイドル」(=777☆SISTERS)というものがその人たちの生活にどう寄り添っているか、を描きたい。

(…)

④「誰かの背中を押すこと」はきっとアイドルでなくても「誰にでも」できる。僕たちがここにいる理由はそれ以外になくていい。だから最初から言っているとおり、やっぱりこの物語は「アイドルの物語」ではなくて、「人間の物語」なんだと思います。

(※)強調・下線は原文ママ。

この一節は、ナナシスのパブリックイメージとして流通している鮮烈なビジュアルや楽曲よりもさらに強いアンチテーゼだと思う。
ここで茂木さんは「セカイ系に反する」「生活に寄り添う」そして「人間の物語」のような言葉を使って、オルタナティブなアイドル像とでも言えるようなものを提出している。

僕なりの言葉を使えば、ナナシスのアイドル像は、「唯物論的」です。
それは一時の熱狂や特別な時間にだけ存在するイリュージョン(偶像)ではない。そのアイドルは、地に足の着いた毎日の生活に寄り添い、日々に彩りを与え、傷を癒す。それは、「人間」を助けるものでなくてはならない。

時代設定が2037年に設定されているのもそこにある。なぜなら音楽は本質的に時代を超えて伝わるものだからです。
そのアイドルは、一般的なアイドル像のように、活動中の熱狂がピークで解散によって終わりはしない。
Tokyo 7th シスターズのアイドルは、終わったところから始まる。それはアイドルがいなくなった2034年から物語が始まることにも端的に表現されている。

ねぇ奇跡みたいな僕らはみんな
いつかは消えてしまうけど
ひとつひとつの光が
いつまでも(色褪せない)
黄金のメロディ

――『STAY☆GOLD』

俗世のアイドル

じゃあこのコンテンツがアイドルを扱っているのは単なる名目上のものなのか。アイマスの便乗なのか。単にロックバンドのユニット出したかっただけなのか。

そこで持ち出してきたいのが、この作品の最も根本的なコンセプトでもある「アイドルがいなくなっている世界」という部分。結局のところここに積極的な意味はあるのでしょうか。

私はあると答えたい。なぜなら、アイドルがいなくなった世界では、人間もまた損なわれかけているからです。
だからこそ、t7s最初の長編ストーリーとして実装されたエピソード4Uでは、セブンスシスターズの解散によって「人間的に」傷を受けているウメがテーマとなる。
アイドルも人間も、その片方だけで自立するものではない。影のないところでは光も生まれないように、あるいは光のないところでは影もないように、それは常に互いが互いを根拠としている。

あるいはこう言い換えてもいい。
「人間」とは、アイドルを通過することでしか発見されえない。

人間という言葉自体は非常に卑近で日常的なものにも思えます。しかし、時として身近で普遍的なものほど見えにくい。ここで、「誰もいない下駄箱、遠くから聞こえる吹奏楽部、図書室の揺れるカーテン~」を思い出していただきたい。これらの「近さ」は、むしろ普段の生活においては意識の外にあって見逃しやすい事象ではないでしょうか。

だからこそ、t7sの裏の特徴とも言える、アプリゲーとしては異例中の異例とも言える膨大な長さのストーリーはすべて、「ヒューマニスティックな」物語になっているわけです。
ナナシスのテキストは(2014年スタートの)アプリゲーのシナリオとしては異例とも言えるほど重いドラマが内包されています。登場人物はみんなそれぞれ泣き、躓き、苦悩し、精神を失調し、肉体的に疲労する。時にはさらにEP 2.0「KARAKURI」やEP 4.0「AXiS」で描かれたような世界の掟やシステムに巻き込まれることもある。

しかし、彼女たちが救済されるとき、そこには必ずアイドルの存在がある。
僕はここでEP4.0においてロナがニコルを送り出すときの印象的な台詞「私のアイドル」を思い出す。ここには最も輝かしいアイドルの姿がある。誰かを想いやる心。それは、最終盤における主題「愛」にも繋がっていく。

個への呼びかけ

私の敬愛しているaikoがよく言っているように、あらゆる表現はその本性上、一対一の契機を要請します。どんなにコマーシャリズムが関わっていようとも、あるひとりの人がひとつの作品に触れるとき、そこには必ず〈作者〉と受け手との、一対一の関係が立ち上がる。

いつのまにか芽生えた
色もカタチも夢も
ひとりひとり違う
それだけで素敵だな

――『Cocoro Magical』

どこかの誰かと 比べたりすんなよ
君が君であること 空に歌えばいい

――『スタートライン』

君と手と手
つないだ指先に残った願い
溶け合えない僕らが持つ
小さなおまじない

――『またあした』

ナナシス、特に777☆SISTERSの曲は、〈個〉を歌ったものが多いです。
そして、それとほぼセットになっている思想が、「わかりあえないこと」。

私には……『あなたはひとりぼっちじゃない』なんて言えない

 

私たちは、他人だもん

私は、あなたじゃないもん

 

あなたは、ひとりぼっちかもしれない

あなたの過去は、やりなおせないかもしれない

あなたの未来は、変えられないかもしれない

 

でも……いつか、そう思う日がきたら……思い出してください

今日、あなたがここにいたこと

あなたが、私の背中を押したこと

 

だから……

あなたは、私のアイドルです

 

――「EPISODE 4.0 AXiS」

アイドルは、単なる共同の幻想であってはならない。絶対者を詐称する偶像であってはならない。
その代償に、世界は相対的なまま動き続ける。

しかし、〈アイドル〉が語りかけるとき、この相対的な世界はほんの少し揺らぎ始める。

「君は、何がしたい?」

この二人称で呼びかける言葉には、本質的に〈個〉の契機が要求されている。CALLING(召命)である。

その一対一の世界において、掟に縛られた世界はわずかの間でも崩れ落ちる。