ドゥルーズの文学論はおもしろい本が多いですがこれもその1つ。レトリックに走りすぎていないし自前の変な概念も使われていない。フランス現代思想ってポストモダンの大きなムーブメント自体の文脈で語られがちだけどコンパクトな小著の個々の論点普通読めばほんとに普通に面白いんですよ。
他の特徴としてドゥルーズの本には珍しく2回の改訂が入っていて、初版が差異と反復を書く以前の1964年、後に増補された部分がガタリとの共同作業が始まる1970年と1976年となっていて、ドゥルーズの思想の拡張がわかる本にもなっている。特に増補された部分は初版の倍くらいの分量を占めていて初版と第2版以降ではほぼ別の本と化している。けど長くなるのでこの記事は後半は扱いません。
欠点はどこでも指摘されているように訳が絶望的に読みにくい。ほんとならドゥルーズの本の中でもわかりやすい本のはずだと思うんですが(スピノザ実践の哲学とかよりわかりやすいと思う)現実的なところまあ厳しい。改訳出ないですかね…
ドゥルーズはまず、読解の中心の概念として「シーニュ(記号・しるし・合図・表徴)」という概念を掲げる(そういう意味ではこの本はドゥルーズの記号論でもある)。
プルーストが作品世界の中で描くシーニュの特徴は、その意味の解読を自ら人に求めるという点にある。シーニュはそれ自体として中立で中性的な存在ではない。むしろシーニュと出会った人に自らの意味を読み取るように誘引し、強制させる。ある風景を誘発させる事物や、恋人の身振りや、芸術作品は、自ら人にその意味の解読を求めるようにシーニュを発する。
1976年に追加された第二部の結論において、ドゥルーズはプルースト的シーニュの世界を生態学的なクモの生活世界に類比している。
「しかし、器官なき身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない。クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動を受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュだけがその内部に到達する。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされているそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。」
世界は主観的でも客観的でもない。あるいは精神でも物質でもない。世界の根源要素はシーニュである。
シーニュはまた、習得(学習)に関わる。あらゆるシーニュは必ずその意味を解釈されるものであり、その解読の技術に習熟するプロセスを、ドゥルーズは習得(Apprentissage)と呼ぶ。「材木のシーニュを感知しないで指物師になることはできず、病気のシーニュを感知しないで医者になることはできない。」
ここからドゥルーズは、『失われた時を求めて』を、習得と未来に向かう物語として読み替える。『失われた時を求めて』は、けっして想起と過去をテーマにしていない。この作品は、主人公が様々なシーニュを習得し、ひとりの文学者となる物語である。ドゥルーズは有名なマドレーヌの一節ですらシーニュの働きであると言う。それはマドレーヌの匂いや味に刻まれているシーニュを解読するプロセスである。
主人公は最終的な啓示に至るために、様々なシーニュを順を追って解読しなくてはならない。しかし、あらゆるシーニュは主人公をその意味の解読へと駆り立てるにも関わらず、解釈の終点に待っている結果は幻滅である。それは偶然ではなく、ほとんどのシーニュは解読の報酬に幻滅しか与えてくれない。
にも関わらずそのプロセスは無駄ではない。次第に難解なシーニュを理解し、解釈者として成長していくことは、最終的な啓示を与える芸術のシーニュへ至る道筋になっている。
『失われた時を求めて』 において、本質的なものは記憶と時間ではなく、シーニュと真実である。本質的なことは、想起することではなく、習得することである。なぜならば、記憶は或る種のシーニュの解釈ができる能力としてのみ価値があり、また、時間は或る特定の真実の材料またはタイプとしてのみ価値があるからである。そして、意志的または無意志的に記憶されたものは、習得の或る明確な時期にのみ介入してきて、その習得の効果を引き受け、あるいは、新しい道を開くのである。シーニュ・意味・本質、それに習得の連続性と啓示の必然性――これが『失われた時を求めて』における諸概念である。
シャルリュスが同性愛者であるということは、ひとつの驚きである。しかしそれを知るためには、解釈者が徐々に、また継続的に成熟することが必要であった。また、新しい知識、シーニュの新しい領域での質的な飛躍も必要であった。私はまだ知らなかった、あとから私は理解しなくてはならなかった、私は学ぶことをやめてからは関心がなくなった――これが『失われた時を求めて』のライトモチーフである。
ドゥルーズは、『失われた時を求めて』のシーニュを4種類に識別している。
(1)社交界のシーニュ
『失われた時を求めて』の第一の世界は社交界である。社交界の人々は身内の中でしか通用しないルールで容姿や身振りや話し方によってサインを発し、そのサインを理解(習得)することによってその世界の一員になる。
社交界のシーニュの特徴は空虚さにある。そのシーニュはなんの意味も真実ももたらさない。社交界の会話は空虚で軽薄なシーニュの交換作業にすぎない。
しかし、だからと言って社交界のシーニュがまったく無用なものとはならない。社交界のシーニュは空虚で軽薄であるが故に形式として純粋であり、まだシーニュを知らない者に、シーニュの習得のプロセスの基礎を与える。
(2)愛のシーニュ
愛される者は、ひとつのシーニュとして、《魂》として現れる。そのひとは、われわれにとっては未知の、ひとつの可能な世界を表現する。愛される者は、解読すべきひとつの世界、つまり解釈すべきひとつの世界を含み包み、とりこにしている。(…)愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展( expliquer=説明 )させようとすることである。
恋愛もまたシーニュを巡るプロセスに数え入れられる。しかし、その世界、恋人の魂は愛する者を待ってはいない。アルベルチーヌがどんなに主人公に好ましいシーニュを投げかけているとしても、その世界は主人公が恋する以前に形成されたものであり、愛する者は必然的にその世界から除外されている。
結果、愛のシーニュの解読は、必然的に嘘しかもたらさない。その嘘はソドムとゴモラの世界(同性愛)を隠している。そして、愛のシーニュは嫉妬に辿り着く。嫉妬が愛の目的地にして終点である。
ドゥルーズは何度もシーニュが思考を促すことを強調する。人はその本性から主体的に思考を始めるのではなく、シーニュによって苦痛を受けることによって初めて思考を開始する。そして、その代表的な事態が、恋人への嫉妬である。
思考という積極的意志、真なるものへの欲求や自然的な愛が人間の中にあると想定するのは哲学のおかす誤りである。また、哲学が到達するのは抽象的真理にすぎず、それは誰をも巻きこむことがなく、動かすことがないものである。《純粋な知性によって形成された観念は、論理的真理、可能的真理しか持たず、それらの観念の選択は恣意的である。》(…)真理は、まえもって存在する積極的意志の作り出すものではなく、思考の中での暴力の結果であるという、このテーマ以上にプルーストが強調するものはほとんど存在しない。
(3)感覚的なシーニュ
ある感覚が、目の前の物とは遠くかけ離れた印象を惹起させ、この世のものではないような快感を与えることがある。そのとき、感覚はシーニュである。ドゥルーズは有名な無意志的想起の一節を感覚的なシーニュに位置づけている。マドレーヌの味というシーニュがコンブレーを示し、鐘塔が若い娘たちを示し、敷石への躓きがヴェネチアを示す。
感覚的なシーニュから示される意味は、単なる心理的なイメージ(観念連合)や記憶の中の写しにとどまってはいない。記憶の理論において、プルーストはベルクソンと軌を一にしている。過去は脳の中に保存された記憶から呼び出されるようなものではない。ベルクソンの有名なテーゼにあるように、過去は、それ自体で保存される即自的な存在であり、我々は生きている限り常に過去の全体を影のように引きずっている。ベルクソンが潜在的なものと呼んだそれを、プルーストは《現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である。》と表現する。
ベルクソンが過去がそれ自体で保存されることを証明した地点で議論を終わらせたのに対し、プルーストはさらに新しい問いを続ける。すなわち、われわれは即時的な過去をどのように救うことができるのかという問題である(ベルクソンは深い夢でさえも過去そのものを純粋に取り出すことはできず、記憶がイマージュの中に溶け込む形でしかアクセスできないという見解を取っている)。
これに対して、プルーストは無意志的想起という解答を提示する。無意志的想起は、マドレーヌの味のような現在と過去で同一の感覚の中に、過去のコンテクスト(たとえばコンブレーの風景)を結びつける。それは心理的な連想の働きをはるかに越えて、マドレーヌの味という同一性の中に、コンブレーの風景という差異が内在化されている。
そのようにして把握されたコンブレーの風景は、かつての知覚や記憶の中のコンブレーですらなく、むしろ新しい姿にすらなっている。コンブレーは、その本質において現前化する。
コンブレーは、体験されえなかったような姿で、実在においてではなく、その真実において、外的で偶然的なその関係においてではなく、内化されたその差異において、その本質において現れる。
しかし、それでもなお感覚的シーニュは究極のシーニュではない。感覚的シーニュは人を本質に触れさせるものの、それは芸術のシーニュに比べて低次の段階で具現化された様態にとどまる。
(4)芸術のシーニュ
芸術のシーニュはシーニュの習得の最終段階に位置する。すべてのシーニュの習得は芸術のシーニュの習得である。しかし、芸術のシーニュに辿り着いたとき、主人公は新しい目でそれまでの不十分だったシーニュに、既に本質が宿っていたことを見出す。
芸術のシーニュは本質を最も純粋な状態で人に与える。なぜなら芸術のシーニュは完全に精神化された、非物質的なシーニュだからである。他のシーニュは多かれ少なかれ物質的な性質を持っている。たとえば恋人の好ましい相貌や、匂いや味のような感覚、目で見て触れられる事物のように。また、シーニュを解読した結果として具現化される意味も、コンブレーの風景や3人の若い娘たちのように物質に拠らざるをえない。
しかし、芸術はこれらのシーニュとは一線を画す。ヴァントゥイユの短い楽節はピアノやヴァイオリンや楽譜のような物質的な部分に分解してもなんら意味を持たない。ピアノは精神的なイマージュであり、メロディは精神的な現象である。「《まるで演奏者たちは、その短い楽節が現れるのに要求される儀礼をしているようで、演奏しているようではなかった……》」
芸術において、シーニュはその担い手においても意味においても物質的な性格を持ってない。むしろ、芸術において、シーニュとその意味は統一されている。このような性格によって、芸術のシーニュは感覚的シーニュではまだ十全ではなかった本質を啓示することができる。
それでは本質とは何か。ドゥルーズの解答は「差異」である。その差異は日常の次元での表象された事物やカテゴリーのあいだにおける差異ではない。それは究極の絶対的な差異であり、1つの視点である。プルースト的本質はライプニッツのモナドに似ている。
しかし、究極の、絶対的な差異とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な、経験的な差異ではない。(…)その性質とは、内的な差異であり、《われわれに対して世界が現れてくる仕方の中にある質的な差異、もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異》である。
モナドに窓は存在しない。友情も愛も、偽の窓から偽のコミュニケーションを通すことしかない。芸術だけが、モナドの究極的な性質である視点そのものとして、精神的な窓の役割を果たす。
芸術的な相互主観性以外の相互主観性は存在しない。芸術だけが、われわれが友人に期待して無駄であったもの、恋人に期待して無駄になるであろうところのものを、われわれに与えてくれる。《芸術によってのみ、われわれは自分から脱出し、われわれの世界と同じでなく、月世界と同じように知られないままであるかも知れない風景を持った、別の世界について、ほかのひとを見るものを知ることができる。芸術のおかげで、われわれの世界というただひとつの世界だけを見ることなく、われわれはその世界の数が増すのを見る。そして、独創的な芸術家がある限り、また世界をわれわれの自由にできる限り、それらの世界は、無限の中に展開する世界にも増して、たがいに差異を持つようになる。》
本質が1つの視点だからと言っても、それは心理的な性質や形而上学的主観性に帰せられるものではない。本質は主観から独立した実在性を持ち、個体を超越している。プルーストは本質を「主体の祖国」と呼ぶ。本質こそが個体を形成する、個体化の原理である。
本質はまた永遠である。ここで言う永遠は「無限に続く」というより、経験的な次元の時間とはまったく別の時間に属し、プラトン的イデアのような不変の実在性を持つ(中世哲学における永続性と永遠の観念の違い)。本質はその中に世界と時間の始まりを内包している。
ここからプルーストの1つのテーゼの1つ、魂の不死性が導出される。
…恐らく、本質それ自体が本質によって個体化される魂の中に囚えられ、包まれている。(…)本質はもしわれわれが死ねばやはり死滅するが、しかしもしも本質が永遠のものであれば、何らかの意味でわれわれも不死である。したがって、本質は死の蓋然性を少なくする。(…)この点において、ベルゴットがフェルメールの絵の小さな黄色の壁面を前にして死ぬことは、象徴的なことになる。《天上のはかりの一方の皿に乗った彼自身の生命が、彼の心に現れたが、もうひとつの皿には、巧みに黄色で描かれた小さな壁面が載せられていた。軽率にもこの壁面のために自分の生命を捨ててしまったのだと彼は感じた。……また発作が彼をおそった。彼は死んだ。永遠に死んだと誰が言えるだろう。》