裏世界ピクニックのアニメやってますね。僕はまだ観てないけど元ネタのストルガツキー兄弟の『ストーカー』は読んだ。
ストーカーについても特に書きたいこともないけど、そういえばこれはスタニスワフ・レム大先生が短い評論を書いてたのを思い出した。レムについては一度書いときたかったのでちょうどいいかな。
これに収録されています。
https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336045065/
1.
レムは哲学関係の本で名前を引かれていたのが最初の出会いだった。そこではフッサールの現象学における意識の考え方について書かれていた部分で『ソラリス』が引かれていた。初めて読んだときはこんなに哲学的な懐疑主義や認識論相対主義の立場を取ってるSF作家いるんだと驚いた。その後も何冊か読んでわりと自分の中で特別な位置を占めている作家になってる。
この本『高い城・文学エッセイ』はレムの自伝と10編の批評や評論やエッセイ類が収録された日本独自のアンソロジー。自伝のほうも大先生の懐疑主義や相対主義の立場が幼少時の性向(たぶん乖離や離人症の傾向がある)や、ナチスドイツに占領されたポーランドでのレジスタンス活動に由来していることが仄めかされていて面白いんだけど、今回はとりあえず評論のみを扱います。
批評の対象となっている作品はドストエフスキーやボルヘスやナボコフなどSF以外の作品も多く、文芸批評としてもすごく充実している。内容は全然古びていないし今でも余裕で通用する。
そして、SFを扱っている批評の大部分は、ほぼSF批判から始まる。特にアメリカSFへの悪口は容赦のよの字もない。徹底的にぶっ叩かれまくっている。このあたりはさすがに当時のSFシーンに由来する性格も大きいんじゃなかろうかと思うけど、批判の内容自体は真っ当だし本質的なところを射抜いていると思う。
内容はめちゃくちゃ難しいので後にその一部を回すことにしてカットするけど、ただ、そんな批判に耐えうる数少ない例外として挙げられている作品や作家もいくつかあって、その1つがストルガツキー兄弟の『ストーカー』になる。他に高い評価を与えているのはH.G.ウェルズ、オラフ・ステープルドン、フィリップ・K・ディックなど。
2.
「A&B・ストルガツキー『ストーカー』論」とシンプルに題されたこの評論でも、レムはSFとはどうあるべき文学であって世にあるSFがいかにダメなのかという話から始める。テーマの中心は地球外知性生命体と人類のファーストコンタクト。言うまでもなく『ソラリス』を始めレム大先生が自作でも最も中心的に扱ってきた主題になる。
書き出しはこうなっている。
完全には扱いきれない極めて困難なテーマが存在する。神学者にとってこのようなテーマは神である。定義上無尽蔵とされるものを、どのようにしたら完全に把握できるというのだろう。
このあとレムはこの神学的な問いと類比させるかたちで、SFにおける非人間的な知的生命はいかに描かれるべきかという話を導入する。
空想文学にとって扱いきれない難解なテーマとなるのは、人間以外の知的存在である。どうしたら人間である作家が、知性を持つことは確実ながら、断固人間ではないような存在を提示できるのだろうか。
要するに、レムはここでSF的カント主義みたいな話をしようとしている。人間が有限な存在である限り、定義上無限な存在は捉えることができない。それは神でも同じだし、絶対的に未知である(直観的に所与されない)地球外知的存在にも当てはまる。そして、SF作家もまた人間である以上、その知性や想像力には制限がかかる。僕が読んできた限り、後期のレムが一度メタフィクションに行ったのもこの難問に取り組むための迂回路だったと思う。
大先生は例示として、H.G.ウェルズの『宇宙戦争』に出てくる火星人を持ち出す。ウェルズの考えた火星人のイメージが貧困だというような単純な話をしているのではない。むしろウェルズはまだ火星人のその姿に合理的な科学的理由を与えていた。問題はその後のSF作家は単純に「理性が人間と同じで姿だけが違う」というバリエーションに陥ったという話になる。
別に宇宙人の姿かたちに限った話でもない、たとえば「なぜ宇宙人が地球に攻撃してくるのか」のような部分でも、作家は植民地主義やコンキスタドールなど「人間存在に起源をもつなんらかのモデル」をどこかでSF的存在に投影してしまう傾向がある。
このあたりは現代的なSF作品だとさすがに意識されてるだろうしいろんな手法でクリアされてるだろうけど、それでもこの指摘が重要だと思うのはSFは科学的な厳密性に加えて物語的な厳密性が要請されるということを指摘している点にある。
しかし、この種の空想文学がおとぎ話的な性質を持つことは明白である。おとぎ話の竜があれほど悪意に満ち、血に飢えているのはなぜなのか、おとぎ話の魔女が鶏より子供を食べるのを好むのはなぜなのか、といったことを問う者は誰もいない。こうしたことはおとぎ話の公理なのである。
僕なりに理解している範囲で言い換えれば、大先生が苦言を呈しているのは文学的な構造分析や物語論で扱われるようなレベルの話に近い。上に引用したところで「公理」と言っているのは簡単に言い換えれば「ストーリーのテンプレ」みたいな話です。この本に別に収録されている「SFの構造分析」「メタファンタジア――あるいは未だ見ぬSFのかたち」の評論2本はそういうところをさらに中心的に扱っている。
3.
んなこと言ってもじゃあどうするのが正解なわけよ、だいたいそんな認識の限界にこだわってたら書けるもんなんもないやんけ、と言いたくなるところで『ストーカー』が出てくる。大先生によれば、この作品は戦略的な書き方によって上に書いたような諸問題をクリアできている。
『ストーカー』の物語ギミックは、宇宙からの”何か”の影響によって地球の六ヶ所に空けられた異空間・《ゾーン》に始まり、そしてそこに尽きる。
レムはまず、《ゾーン》の神秘性に注目する。言うまでもなく、これは異星人からの単純な攻撃とは確定できない。つまり、この現象を起こした来訪者の意図はまったく謎のまま残り続ける。
また逆に攻撃ではないからといって「相手からは善意のつもりだったけど地球側からは攻撃になった」とも言えない(矛盾律が通用しない)。そもそも「意図」というものを措定していいのかもわからない。さらに言えば来訪者が本当に来たのか否かもわからないし、目に見えないままいまだ留まり続けているのかもわからない。
『ストーカー』においては、すべてがウェルズの場合とはまったく違ったふうに進行する。(…)侵入が起こったのはおそらく確かであり、〈ゾーン〉という消すことのできない痕跡が実際に残っている。地球が侵入のもたらした結果と同化できずにある一方、人間社会は従来どおりの営みを続けている。宇宙からの雨のように、地球の六ヶ所に落ちてきた危険な驚異は、人間の――合法か非合法かを問わず――多様な活動の拠点になっている。(…)神秘保持の戦略を、ストルガツキー兄弟は顕微鏡的とも言えるクロース・アップという、極めて巧妙なやり方で実現した。
キーワードは「視点」にある。ストルガツキー兄弟は人間由来のなんらかのモデルを地球外の存在に流し込む過ちを犯さなかった。代わりに取られた戦略は、ある驚異に対する、人間の反応を描くことだった。
『ストーカー』では、ゾーンに立ち入るストーカーという新手の業者たちを始め、被害を受けた住民、さらに〈ゾーン〉が人間社会の利害関係や学者の研究活動の対象になり、さらには娯楽産業までもが〈ゾーン〉を包囲していく様子が描かれる。
レムはこの社会学的な描写をものすごく高く評価している。つまりストルガツキー兄弟はある脅威を「説明」するのではなく、驚異が人間存在あるいは人間社会に「どのような影響をもたらしたのか」を描き出すことによって、適切で誠実な視点を取れた、と。『ソラリス』を読んだ人ならあの小説の中で延々と続く「ソラリス学」のことを思い出せるであろう。
レムはこれを総括してストルガツキー兄弟を「SFにおけるリアリスト」と呼称している。そしてこの視点が『ストーカー』をSFとして特異な作品にしているのだと。
4.
さて、だいたいの批評の内容はここまでなんだけど、あともう1パートだけ続きがあって、このあとレムは純粋な神秘として描かれている〈ゾーン〉の謎解きを始める。あんだけ謎を謎のまま残してるからすごいんだとか言っといてなんなんだ感あるが、まあそれは置いといて内容はとても面白い。
ただ一点だけこの本に疑義を呈したい――(…)それは「来訪」の性質そのものに関するものである。この議論を支えてくれるのは、次の四つの前提だ。第一の前提は、最終的に、小説の中ではわれわれに事実が示されているが、これらの事実に対する作中人物の意見は、ノーベル賞受賞者のものさえ必ずしも示されているわけではない、ということである。つまり、われわれは来訪者について推理する然るべき権利を、小説の登場人物同様に持っていると言えよう。
ここから、世界第一級の知性による本物のオタク考察が始まる。このパートはまー読み応えがある。ページ数にすると15ページ足らずだけどすさまじい密度がある。こんなに『ストーカー』を深読みできる人間なんか絶対に世界に一人もいない。その内容は各自買って読んでください。
さて、この評論は個人的に好きな一節があって、あとそこだけ取り上げてから終わりたい。僕はレムより人間の深い部分への洞察を持っている作家はそうそういないと思うし、その眼差しはニヒリズムやヒューマニズムみたいな言葉なんかじゃぜんぜん足りないよ、と思います。
それに対し、SFが科学的と自称する以上は、その世界は公平なものでなくてはならない。その世界で悪が生じるのは、なにも惑星間のレベルで統一された美徳によって克服されるがためではないのである。この世界はマイナス記号つきの偏った世界、つまり、美しくふっくらして気高い善が、悪の化身に最大限の満足を与えるために育まれ、結局それにばりばりと食べられてしまうような反おとぎ話の世界でもない。