自由と肯定のスクールアイドル:ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

自由と肯定のスクールアイドル:ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

ついにアニヶ咲が終わりました。2020年代の始まりにふさわしい新しいマイルストーンになる作品だったと思います。

のでさっさとこの記事出します。元々は11話に焦りすぎてそれまでのメモ書きを全部文章に起こて自分の読みを整理したのが元になってるんですが、そのあとも書き継いでいるうちにこういう長さになりました。

作品としては、何より物語のテーマやメッセージが響く作品でした。僕みたいなのが言うのもなんですがシンパシーを感じるアニメでした。アイドル扱ったコンテンツこれだけ増えてると差異化や新規性みたいなほうに目がいきがちだけど、最終的にはそういうところを越えてもっと深いところで響く作品でした。
列挙すれば、大きな目的や物語を回避して個人主義を貫ききったこと、そうそう見ないほど〈個〉の力を信頼していたこと、わかりやすい悪や敵や障害を配置しなかったこと、そして高咲侑ちゃんという非常に傑出したキャラクターの存在です。

本当に豊かな作品だと思うので読み方としてはキャラクター解釈や映像的な演出面など多面的に汲み取れると思うんですが、ここではシンプルに対象をアニメに絞って1つの物語としてテーマやメッセージを読む感じのアプローチでやってみようかなと思います。

作品のテーマとしては全員がソロアイドルというコンセプトから導かれた多様性と個人主義が最大のものと言っていいと思いますが、その中でも特に強い原理として「それぞれの個人が内面に持っている夢や衝動や願い」みたいなところに絶対的に高い価値が置かれていたと思う。そして、後半からはそこにはスクールアイドルとファンの垣根すら関係ないという、事実上アイドルものというジャンルの枠を越えた強いメッセージ性を持っていく。

1. 物語から解放されるスクールアイドル

 

現存在がおのれの根拠であるのは、実存することによってであり、すなわち、もろもろの可能性からおのれを了解し、かかる了解をもって被投的存在者を存在することによってである。

――『存在と時間』マルティン・ハイデガー

 

1.1. ラブライブは出なくていい

ここから始めましょう。言うまでもなくこの作品をカラーを決定づけた台詞ですが、この「ラブライブは出なくていい」が作品を最後まで基礎づけていた土台だったと思う。

これによって、この作品には一切の前提されるべき目的がなくなった。なんらかの目的、物語の終わり(テロス)が存在することは、あらゆる物語が成立する最小原理である。この作品はそれを取っ払うところから始めた。
ちょっと抽象的かもしれないけど要するに目標とか越えるべき壁とか言い換えられます。先代シリーズを評して言われる「スポ根としての性格もあるアイドルもの」という理解は、作中のスクールアイドル全国大会としてのラブライブがあることによって成立していました。

壁が大きければ大きいほど、生まれるドラマもまたスケールを増していく。しかし、それは時に人を縛り、統制するためにも働く。
中須と大喧嘩して一度は同好会を脱退したときのせつ菜もやはり、一種囚われていたでしょつ。台詞からラブライブにこだわっていたのもそうだけど、回想を見る限り熱血スポ根脳すぎてブチキレられていたっぽいのも何かしら感じるものがある。

1.2. 自由の経験と未知なるミチ

じゃあその目的なり目標なりを否定したとすればどうなるのか。

4話アバン、愛と璃奈がスクールアイドル同好会に入部しに来るときの台詞はこうであった。

愛「ところでスクールアイドル同好会って何するの?」

せつ菜「えっと……実は今それを探しているところでして」

さらっととんでもないことを言っている。一応「ライブをやる」というのが最終目的としてだけは決まる。
そして全員ソロアイドル路線が決定される。作中ではラブライブ出場とソロアイドル路線はトレードオフなのかは謎なので内々の事情は優木せつ菜さんに聞く他ないのだが、少なくとも作品を通したテーマはここで既に先鋭化される。

グループでないということはなんらかの共通するコンセプトもないし、センターもいない。再び無目的性が徹底化される。
よって、個人や主体性が問われる。ラブライブを否定したことで強制される目標はなくなったけど、代わりに大きな物語が与えられることもない。
今度の物語は自らの手によって自ら編まれなければならない。物語に自己が前景化してくる。ラブライブを蹴り飛ばして空席になっていた目的の位置に、メンバーそれぞれの「自分の夢」が代入される。

そういうわけで序盤の展開は最もストレートで強い主体を持つメンバー、自らの美学の理念「かわいい」に向かってすべての言動が集中する中須かすみが主導する。

オンリーワンのきらめきを
信じて いつも Make My Way!!

『Poppin’ Up!』

しかし全員中須みたいな奴だったら苦労しないしこんなアニメが作られる必要はない。

必然的に4話の愛ちゃんのように自己が問われる。「汝自身を知れ」である。このアニメは直球の自分探しを主題にしたのが案外少なくて、本当にここくらいだと思う。
いずれにせよこの挿話は重要でしょう。そもそも一般的に人はあらゆる目的から解放されているという状況なんてのはまずない。大なり小なりなんらかの目的のために人は生きている。

しかし、それでも時として、人は自らが自由の能力をもつことに気付きうる。それは大きな解放への開かれであると同時に、どこにも足場のない不安の経験でもある。
課題は自分の自由と可能性に気付くことにある。自分には何が「できる」のか。どのようなヴィジョンを未来に照射できるのか。4話のサブタイトル「未知なるミチ」はそれを表現している。

朝が来て ヒカリ溢れたら
走り出そう Go together

『サイコーハート』

虹ヶ咲における多様性主義・個人主義は、このように大会としてのラブライブから目的論的な図式を基本としたスライドという性格を持っている、というのは個人的に強く主張したいところです。この作品は明確に個人主義をテーマとしていますが、それは安易なエゴイズムとも快楽主義とも違っているからです。

2. 新しい原動力としての自己衝動

 

この努力は、ただ精神だけにかかわることによって、意志と呼ばれる。しかし精神と身体同時に関係するとき、衝動と呼ばれる。その結果、衝動とは人間の本質そのものにほかならず、その本性から自己の維持に役だつような多くのことが必然的に導かれる。(…)

われわれは、どのような場合にも、ものを善と判断するから、そのものへ努力し、意欲しあるいは衝動を感じあるいは欲求するのではない。むしろ反対に、あるものを善と判断するのは、そもそもわれわれがそれにむかって努力し、意欲し、衝動を感じあるいは欲求するからである。

――『エチカ』バルーフ・デ・スピノザ

 

2.1. 動き始めたら止めちゃいけない

ラブライブ出場という外の目的を否定してから、ベクトルが反転するようにこの物語は個人の内側に向かっていく。
アニメ全体を通して見ていて僕が最も惹かれるのが外から強制される大きな目的や動機の否定です。虹のモチーフが表現している「1つの色に染まらない」である。

この作品はなんらかの外的な敵や悪役はあまり設定されていないけれど、代わりに作中のドラマで設定されている障害のほとんどが自分との戦いです、りそうでない場合もエマや彼方のように比較的親密な関係にある人々が関わります。だからそれを解放することに物語が集中するし、主題は個人の内面に向かっていく。
ここでメンバーそれぞれを見ていくと、特に関心を惹かれるのは侑と歩夢とせつ菜の3人です。言うまでもなくこの3人はアニメの序盤と終盤において物語を動かしていた中心的なキャラクターだったわけだけど、この3人はその自分の夢への向き合い方もどことなく似ている。

  • 侑:やりたいことが見つからなくてスレている
  • せつ菜:ラブライブに縛られてスクールアイドルを辞める
  • 歩夢:自分のかわいいものへの欲求を抑えつけている(終盤では侑ちゃんへの依存から自立できない)

侑はちょっと違うけど、他2人は「抑圧からの解放」みたいなところが主題になる。そして、この3人の形作るトライアングルが物語の重要な役割を成していたことには違いない。
この3人の関係するイベントから、特に物語の転換点となる場面を抜き出してみましょう。

  1. 【1話】せつ菜がCHASE!のライブで侑と歩夢にスクールアイドルへの目醒めを与える
  2. 【1話】同好会の廃部を知って諦めかけている侑に向けて、歩夢が初めてマンションの階段で歌い、2人のスクールアイドル活動が始まる
  3. 【3話】侑がせつ菜を屋上に呼び出し、ラブライブへの呪縛から解放する
  4. 【12話】親友への依存心から抜け出せない歩夢に向けて、せつ菜が背中を押す

つまり、この3人はせつ菜→歩夢→侑→せつ菜→歩夢という順に、互いにもらった勇気を分け合うような形で、互いの背中を押す役割を果たしている。
僕はこれを実質的なアニメの縦軸と見なします。そして、これらのイベントはすべて同じキーワードでリンクしている。

「なりたい自分を我慢しないでいいよ」(CHASE! 歌詞)

「それでも、動き始めたなら、止めちゃいけない。我慢しちゃいけない。」(1話歩夢)

「私の本当のわがままを…大好きを貫いてもいいんですか?」(3話せつ菜)

「始まったのなら、貫くのみです!」(12話せつ菜)

ここでは、自己衝動の肯定がテーマになっています。
第3話サブタイ「大好きを叫ぶ」である。

目を閉じて
言い聞かせてみたって
もうカラダ中騒いでる
止まらない Heart
強く熱く…!!

『DIVE!』

僕が読みうる限り、この個人それぞれに生まれた「好き」や夢や願いや衝動はいかなる場合であっても肯定されなければならないというメッセージは、このアニメの最高格率と言っていいほど強い一貫性を持っています。見逃しがない限り、同好会メンバーは作中のすべてのエピソードで、個々の夢や願いを自ら展開させるように手助けするように行動していきます。

この作品の論理は徹底的に内在的です。作品のテーマに「自分の中に眠る可能性を縛りつけたり諦めたりしないこと」というのが大きなところにあると思う。
1話の歩夢の言葉「自分に素直になりたい」はそれをよく表しているし、5話でエマが果林に言う「やりたいと思った時から、きっともう始まってるんだと思う」でもある。

高鳴ってく(胸の中)
自分の気持ちに(もう)
ウソをつくのって
すっごくむずかしいね(そうでしょ)
心に耳をすませて

『La Bella Patria』

2.2. 廃校へ対置される自己衝動

また、これは再び先代シリーズとも対比的と読めます。たとえば廃校。先代がスクールアイドルをやる最大の動機が廃校を防ぐ「ために」ラブライブに出るという自分の外にある目的だったのに対し、虹ヶ咲の物語は徹底的に内的な衝動を原動力としています。ここでもやはり自己と主体性が問われる。
あと言われて気がついたけど、そもそも虹ヶ咲学園は絶対に廃校しそうにない。おそろしいことにこのアニメは学校が東京ビッグサイトなことにすら意味があります。

ともあれ、せつ菜のようなラブライブ出場という大きな目的であれ、りなりーやしずくのような自分の限界であれ、自らの衝動を阻害するものに夢や願いが挫かれてはいけない。時に彼方ちゃんや歩夢のように、妹や親友への愛や思いやり、そして「それぞれの夢」が関わる時ですら、個人の願いは諦められちゃダメなんだという道が選ばれる。
彼方ちゃんが当番の7話、果林とエマが言う、「それってわがままじゃなくって自分に正直って言うんじゃない?」「自分に嘘ついてるよりずっといいと思うよ」はこの作品のメッセージを最も短く表現している。

一人きりじゃ もう
両手いっぱい広げても まだ
足りないほどに大きな Dreams 今
一緒に抱きしめよう

『Butterfly』

3. 新しい目的としての自己陶冶

 

それについては、私、ちょっと驚いていることがありましてね。それは、現代社会では、芸術がもっぱら物体にしか関与せず、個人とか人生とかには関係しないような何かになってしまっている、という事実なのです。その場合の芸術とは、言いかえますと、芸術家という専門家(エキスパート)の手で創り出されたものだということです。

しかし、各人それぞれが自分の人生を一つの芸術作品に仕上げていくことはできないのでしょうか。いったいなぜ、ランプや家屋が一個の美術品でありうるのに、私たちの人生はそうではないのでしょうか。

――「倫理の系譜学について」ミシェル・フーコー

 

3.1. 生のスタイルとしてのスクールアイドル

この内的な自己衝動の重視はラブライブ出場に代わり、物語を動かす「動力」として機能しています。そして同時に、目標や壁としての物語の「目的」も代置されている。

メンバーにもよるけれど、この作品は「理想のスクールアイドル像」と「理想の自分」がほぼ重なっていることが多い。代表的なのはしずくやりなりー。そして、それぞれの個人回におけるライブシーンはその実現された自己の象徴と読める。つまりスクールアイドルは「理想の自分を表現するための媒体」と見ることが可能になる。

特に目立ったコンプレックスを抱えているわけではないメンバーも多いのでちょっと強い表現かもしれないけど、それでもセルフプロデュースを貫く以上、個々の「好き」が重要になるのは間違いない。特に前半はこれがラブライブ出場に代替される新しい目的として設定されている。

歩夢のシンボルが花なのは示唆的です。美しい花の設計図はすべて種の中に含まれているように、個々それぞれの可能性はすべて自分の中に眠っている。大事なのはそれを展開し、開花させることにある。
つまり、「自己を実現(現実化)させる」のが最重要視される目的となる。いわば潜在的な可能性をアクチュアルな次元にもたらす。還元すれば、虹ヶ咲学園におけるスクールアイドル活動の意味とは自己陶冶の実践である。

いいよ 不完全で(イツダッテ イツダッテ!)
もう隠さないんだ(ワタシハワタシダッテ!)
理想へ届かなくても
一歩 踏み出してみようカナ…

『ツナガルコネクト』

僕が非常に好きな点の1つでもありますが、この作品は作中でそれぞれのメンバーにとってステージを経験することが精神的な成長や変化に繋がっています。アイドル扱った作品ではわりとよくある話の作り方ではあるけど、しかしここまで徹底的に個人にフォーカスしたものはあまり記憶にない。

また、やや踏み込んで解釈してみたいんだけど、この物語はたぶん「何者かになる」ことも二義的くらいにしか意識してない。それは個が類に包摂されることを意味する。自家撞着的な同語反復みたいになっちゃうけど、個である限りの個にとって本質的なのは「自分になる」ことである。しずくの当番回の8話はそれを鋭い形で扱っていました。

世界でひとりきりの
私になる覚悟なら
できているから
その瞳に映して

『Solitude Rain』

虹ヶ咲が本当に凄かったのはこのプロセスを単なる自己研磨や修練一辺倒として描かなかったことだと思います。むしろどちらかというと自ら築いた束縛を解放したり、自分の弱さを受容するといったパターンのほうが多かった気がする。

3.2. 中須かすみと無敵級*ビリーバー

この記事を最後のほうまで書いたあとで気付いたんですが、普通に観てるとあんなに存在感あったかすみんさんが全体を大きな物語の流れで見ようとすると意外なくらい抜けてきます。
ただの見落としがあるだけだろうと思ってたんだけど、少し思ったのはこれは登場した時点で既に個として完成されているのではないか。つまり、アイデンティティ形成が完了している。せつ菜との和解が早いのもありますが、そもそも当番の2話はこの作品で滅多にない「自分の行動の反省によって解決する」回です。
このアニメは基本的にアクセルを踏ませるイベントがほとんどで、ブレーキかける力が働くのは本当にほとんどありません。当然この挿話は全体の流れ考えたときに必ず要請されるものではあります。

そんなことを考えてたときに浮かんだのがこれ、アニメ開始前のPV付きシングル・無敵級*ビリーバー。

鏡をモチーフとして中須のかすみんが自己対話を繰り広げる曲。特徴は意外と弱気な本音も吐露しているところ。作詞はアニメの全挿入歌と同じAyaka Miyakeさん。
で、おそらくこのアニメに出てくる中須かすみにはその前提として無敵級が設定されてるんじゃないか、というかこれが実質的にはある意味では中須かすみ個人回の1つなんじゃないか、というのが個人的に読んでみたいライン。歌詞がほぼしずくの回と対応している。

「努力しても追いつけないのかな」
『ううん!弱気で凹んでちゃダメ』
「私にだってできるはずなのにな」
『超絶 誰より イチバンだもん』

この世界でたった一人だけの私を
もっと好きになってあげたい

『無敵級*ビリーバー』

4. ファンとの出会いとスクールアイドル同好会

 

だが原則として、徒党を組んでよいことがあるとすれば、それは各人がまさに他者と出会いながら、そこで自分自身の事柄をもち帰ることであり、ひとつの生成が素描され、ひとつのブロックが運動し始めることである。(…)

それは彼らの孤独の最も豊かな使用法ではないまでも、出会いの手段としてそれを役立てること、二人の人間の間に一本の線やひとつのブロックをすり抜けさせること、二重の捕獲の現象すべてを生産すること、《と》という接続詞が何であるかを示すこと、連合でも、並置でもないが、吃りの誕生であり、つねに隣接して始まる破線の軌跡であり、一種の能動的で創造な逃走線である《と》を示すことだったのではないか。《と》…《と》…《と》…

――『ディアローグ』ジル・ドゥルーズ

 

4.1. 開かれる同好会

中盤の個人回はパーソナルな世界を扱ったものが多くなっていましたが、果林の当番回の9話から同好会にとってのファンの存在や外の世界が前景化し始めます。
そして、これがこのあとファンサイドを代表する存在である侑ちゃんや、歩夢をめぐるストーリーに繋がっていく。

全員ソロアイドルでそれぞれの好きなことを追求する虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会だけど、それでもアイドルである限りは自己完結した存在ではいられない。なんらかの表現は既にそれだけで外に開かれている。ファンあってのアイドルなのはすべてのアイドルの基本です。中須かすみも作中でそのようなことを言っていた。

9話で他校生の姫乃が登場し、初めての大型対外ライブに出場することで、同好会が外に開かれていく。ショップに売られている他校生のグッズはスクールアイドルが広く世間に受け入れられた存在であることの象徴になっている。

果林の個人回は他と比べてやや話の性格が違う。自分に素直になることはエマの5話で終わらせているし、既にモデルをやっていてプロ意識も高いので、ダイバーフェスという「自分の外側にあるハードルとの戦い」的な性格が強くなっています。

ここが初めての同好会にとっての試練になる。果林が各メンバーのイメージカラーを背負って歌うのはその象徴。しかし、ここまでの8回でそれを越える準備はできている。あとは背中を押すだけ。

1つの色に染まらないことを美学としている虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会だけど、それはけっして繋がりも絆もないことを意味してはいない。それは一言で表される。仲間でライバル。

一人きりじゃきっと
知らずにいた
弱さ 痛み 翳(かげ)り 全部
好きだって(そばで)
笑うキミが好き

『VIVID WORLD』

4.2. 相互性の関係としてのスクールアイドル同好会

この同好会の特徴について個人的にちょっと書いておきたいことがあるんだけど、文字に起こしてみるとなんとなく見えてくるものがある気がしてる。

  • 他人の理想や考えを尊重する
  • 見守るしアドバイスもする
  • でも過干渉はしない(できない)し、結局最後に決めるのは本人次第

これ、アイドルとファンの関係に似てませんか。実際のそれよりかはだいぶ距離感近くはあるけど。というか、ファンとの距離が近いってのもスクールアイドルなら当たり前と言えるかもしれない。正直ここは根拠も裏付けもない直感的なものでしかないんだけど、なんかこの同好会の奇跡みたいな関係性はアイドル的なるもの一般の本質から導かれてるような気がする。

常識的に考えて1人きりで孤独に何かを始めるのは厳しい。誰だって受け手が欲しくなる。だいたい一般的に自分の外にある既存の目的に自分を合わせる理由の1つはそのほうが受け手が期待できるからだ。というかたぶん、この作品の画期的な点の1つは目的とレシーバーを切り離したところにあるんだと思います。

しかし、互いが互いの好きなことを貫きながら、互いに互いを好きなことを肯定できるような、一種の相互的な関係において1つの共同体を作れるとすれば。
それが虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会だったんじゃないか、と、僕は考えてみたい気がします。そもそもこの物語の最序盤は、歩夢と侑、かすみと侑、せつ菜と侑と、自分の大好きを「受け止めてくれる」人として、高咲侑ちゃんがいるところから始まっている。
侑ちゃんがキーになる。アイドルと密接な関係を結びながらも、ステージには立たない存在として。

5. スクールアイドルの反転としての高咲侑

 

でも……いつか、そう思う日がきたら……思い出してください
今日、あなたがここにいたこと
あなたが、私の背中を押したこと

だから……

あなたは、私のアイドルです

――「EPISODE 4.0 AXiS」 Tokyo  7th シスターズ

 

5.1. 二人称を担う主人公

さて、いよいよ高咲侑ちゃんです。誰がどう見ても特異なキャラ付けと特異な立ち位置の侑ちゃんなわけだけど、とりあえず基本からいってみましょう。
侑ちゃんの出自はスクスタ版におけるノベルゲームパートの主観視点を担うプレイヤーキャラであり、アイマスでのプロデューサーとかに相当します。そしてデフォルトネームの「あなた」からYou=侑と名付けられている。

そして、作中の侑ちゃんはこのあなた=Youという「二人称視点」を担うキャラクターとして、広い意味が付与されている。

  1. 同好会メンバー全員にとってのファンとしてのあなた(一般的なアイドルとファンでは二人称複数形の関係)
  2. 歩夢にとっての特別な相手としてのあなた
  3. このアニメの視聴者側を代表する視点キャラないし感情移入キャラとしてのあなた

一番上から始めましょう。何よりまず作中でのファンサイドを代表するキャラクターとしての性格が顕著なのが侑ちゃんです。
よく言われていたように、序盤の侑ちゃんは「観客が1人いればそこがどこでも無差別にライブの会場になる」という革新的な舞台装置として働いていました。また、ストーリー上でも一度スクールアイドルをやめたせつ菜のすべてを受け止めて肯定することで再びスクールアイドルに復帰させる役割を担っている。

こればっかり言ってるけど、虹ヶ咲の美学は外の目的に自分を合わせることを放棄して内面の衝動をすべて表現しきる点にある。そして、それは絶対的に安心安全な受け手として侑ちゃんがいることで保証されている。
つまり、スクールアイドルという「表現する側」から見て理想的な存在として機能しているのが侑ちゃんだと解釈することができます。いわばリスナーや観客といった受信者側として理想化された存在が侑ちゃんです。
侑ちゃんが一般的なアニメ版プレイヤーキャラとして最も個性を発揮するのはこの点です。作中の役割で目立つのが「聞き役」に回っている場面。言ってみれば傾聴やカウンセラーの役割が多い。

換言すれば、侑ちゃんは「理想のアイドル」を反転させた存在です。こんなキャラクター見たことありません。どうやってこんな子が生まれたのか不思議でしょうがないです。
ただ、少なくともラブライブという作品が、職業アイドルではなくアマチュアのスクールアイドルという概念を扱っているのは大きな点でしょう。職業アイドルのサポート役はマネージャーや同僚に限られる。原理的にはラブライブ以外なら絶対に生まれないはず。

さらに、歩夢との関係においてはスクールアイドルを越えてパーソナルな領域において精神的成長を担うペアの相手なので、ほとんど歩夢の鏡像みたいにすら見える。エヴァのカヲルくんみたい。ピアノ弾くし。というか関係性自体としては他のメンバーともそうなので、同好会メンバーそれぞれにとっての鏡みたいな役割を果たすキャラクターと見なしてもそう間違ってはいない。

5.2. トキメキから何かが始まる

しかし、それでもやはりというかこのアニメは高咲侑をただの舞台装置では終わらせなかった。
序盤以降の侑ちゃんの作中描写は同好会メンバーより前に出すぎないようになっているので、本人のキャラクター造形が若干見えにくくなっていますが、1話を観るとそれなりに描かれています。
簡単に言えば「やりたいことが見つからず、歩夢との交友関係に終止している毎日を楽しみながらも、どこか空虚さを感じている子」という感じ。部活棟にせつ菜を探しに行ったあと、辞めたことを知って簡単に捜索を諦めてしまう場面に性格がよく表れている。
そして、その場面でぽつりと口に出すのがこういう言葉。

夢を追いかけてる人を応援できたら、私も何かが始まる。……そんな気がしたんだけどな。

言ってみれば、この作品は高咲侑が自らの夢を見つけるまでの物語でもあります。言い換えれば受動的な(=舞台装置的な)性格が強かった侑ちゃんが自らの主体性を生成する物語である。
この視点を得たとき、高咲侑はただ同好会メンバーを受け止めるだけの役割を離れ始める。9話のダイバーフェスで歌う果林を観客席から見つめるシーンはその最も象徴的な場面と見なすことができます。ここでの侑ちゃんは同好会メンバーを受け止めるだけではなく、「何かを始めようとしている側」になろうとしている。

そして何より、スクールアイドルの存在がその覚醒を与える。
侑がせつ菜と歩夢の想いを受け止めることから始まったこの物語が、ここで再び侑が何かを始める衝動として回帰する。ここで、スクールアイドルとファンの相互的な関係性が円を描いて完成する。

5.3. スクールアイドルの存在の意味

「ラブライブは出なくていい」から始まったこの作品が出したスクールアイドルの「目的」への解答は、信じられないくらいシンプルな地点でした。

ファンのために歌う。

あまりにもシンプルすぎるけど、本当にこれが解答です。

ただこれは逆に、少なくともμ’sが「勝利」を掲げるほどスクールアイドル全国大会に賭けていたのを考えれば、むしろ意外と盲点だったのかもしれません。僕は先代シリーズきちんと履修していないのでそこまで鋭く対照させられるのかには自信がないんですが。

夢が大きくなるほど(試されるだろう)
胸の熱さで乗り切れ(僕の温度は)
熱いから(熱すぎて)とまらない
無謀な賭け? 勝ちにいこう!

『僕らは今の中で』

そして、このシンプルすぎるほど簡単なテーゼもやっぱり単なるエンタメの偶像としてのそれとはまた違っている。ここで「アイドル」ではなく、「スクールアイドル」であることの意味が出てくる。
簡単に言えば同年代でアマチュアでアイドル活動頑張ってる子たちの持つ意味が。11話でかすみんボックスに寄せられている校内ファンからの数々のおたよりがその答えだ。

この作品におけるスクールアイドルの最大の意味は、人に何かを始める初期衝動を与える存在です。これは間違いなくこの作品のコア中のコアのメッセージとして保持されています。侑ちゃんの語彙を借りれば「胸のトキメキ」である。

生まれたトキメキ、あの日から世界は変わり始めたんだ!(1話アバン)

ここでもやはり歩夢とせつ菜がキーキャラクターになる。
最もシンプルなのはせつ菜です。というかせつ菜は事実上すべての場面で、ライブを観た観客に何かを始める初期衝動を与える存在として描かれています。作中に描かれているだけでも侑、歩夢、愛、璃奈、果林の5人は直接的にせつ菜のライブを見てスクールアイドルを始める。また、せつ菜以外でもエマが日本のアイドルに憧れて来日するほどの行動力を発揮していることが描かれている。

5.4. 高咲侑と上原歩夢

歩夢については、侑とのペアの関係性において、初期衝動を与えるスクールアイドルと、それに触発されて何かを始めるファンの関係性を最小の単位で表現しています。

いつも見慣れた道 揺れる日差し
何だか今日は少し 違って見えるよ

迷わずに 駆け出してくの
行く先を 勇気で照らすから

『Dream with You』

1話を観ていると、意外と最初のほうの歩夢はまだそこまでスクールアイドルに積極的になっていません。せつ菜のライブにアテられてテンションが狂っている親友に付き合って部活棟を引きずり回されているくらいです。

これがはっきり転換するのが、侑ちゃんが上に引用した言葉「夢を追いかけてる人を応援できたら私も何かが始まる気がする」を口にするとき。歩夢はその想いに呼応してスクールアイドルになろうとしている。
だから歩夢は「本当は私もせつ菜さんに会ってみたかった。けど、会っちゃったら自分の気持ちが止まらなくなりそうで怖かったの。」とためらいの気持ちを明かすし、この後の2人に起こることをどこかで予感している。

動き始めた衝動が止まることはないのは歩夢だけではなく侑にだって当てはまる。しかし、

「それでも、動き始めたなら、止めちゃいけない。我慢しちゃいけない。」

歩夢が侑への依存から離れるためのファクターにもファンが関わっていました。「みんな」のために歌うこと。「自分たちの好きを実現させる」から始まった物語はここで事実上の転換を迎える。スクールアイドルは外に開かれている。
でもやっぱりこのアニメが優しかったなと思うのは歩夢の望む2人の世界も諦めさせなかったことだと思います。結局のところそれはどういうレベルで両立しないかの問題になる。

そして、最終的に侑ちゃんの志望は音楽になる。
ここまで書いといてもう今さら言うことでもないけど、侑ちゃんをステージに上げなかったのは本当に凄かったと思います。そっちのほうが絶対話の作りとしても簡単だっただろうしスムーズだったと思うけど。

しかし、おかげで作品の持つメッセージの射程距離は極限まで長距離になっています。
何が違うのか。別に何かを始めるのはスクールアイドルである必要はないということだ。ここで侑ちゃんのもつ二人称的な性格の最後の要素が効いてくる。高咲侑は「あなた」に尋ねかけている。

6. オルタナティブなラブライブとしてのスクールアイドルフェスティバル

 

アイドルは、アイドルじゃなくてもいい。

――Tokyo 7th シスターズ

 

「ラブライブは出なくていい」から始まったこの物語の終着地はここでした。スクールアイドルフェスティバル。

この物語は初期衝動を与える側のスクールアイドルと、それに触発されて何かを始めるファンサイドのキャッチボールを繰り返して大きくなっていきます。その過程で同好会メンバーも増えるし、ファンも増えていく。

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会は、それを「みんな」と呼んでいる。虹ヶ咲にとってのこの言葉は「ステージの垣根を越える」ことを意味している。言うまでもなく、これは同好会のスクールアイドルメンバーと侑ちゃんに対応しています。

だからこそ開催されるべきフェスの形は、他の部も他校のスクールアイドルも巻き込んだものになる。横文字を使えばボトムアップと言ってもいいし、硬い言葉なら民主的と言ってもいい。

で、それを理念として開催されたフェスが具体的にどういうものだったかというと、いや、本物だった。
本物の高校の学祭。衒いも背伸びもない。突然の雨に対応できないのも高校生ゆえの甘さなんでしょう。

フェスの最中には侑ちゃんが「なんていうか…自信が欲しいんだよね、私。今から新しいことやるってやっぱり大変だろうし」と歩夢にこぼしたりもする。(あんなに他人のこと全肯定してた侑ちゃんがいざ自分の番になるとこんなこと言っちゃうの愛おしすぎる……。)

そして雨が降る。この作品で唯一と言っていいくらいいじわるなライミングで。
しかし、高咲侑にはここまで紡ぎあげた絆がある。雨上がりに虹をかけられるくらいの。

今までみんなに支えてもらった分、次は私たちがみんなの夢を応援します!(13話せつ菜)

これからも、つまづきそうになることはあると思うけど、あなたが私を支えてくれたように、あなたには私がいる!(13話歩夢)

個人個人の好きを追求してきた虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会が、他者の「ために」歌う。ここが物語の最終目的地になる。

このアニメは姫乃や演劇部部長を筆頭にゲストやサブキャラのキャラが異常に立っているという特徴がありますが、それもここが集大成になります。
なぜなら、彼女たちもまたスクールアイドルと共に夢を分け合う存在だからだ。
この作品におけるファンは、アイドルを引き立てるためのモブを意味していない。流しそうめん同好会出てきたの感動しちゃったね。

最後はスクールアイドルに背中を押された侑ちゃんが締めて終わります。

間違いなくアイドルを主題にした作品のはずなのに、この物語のラストカットはアイドルじゃない。

そのメッセージは……書くまでもないか。